館長のコラム
こちらは目黒陶芸館の館長が、陶芸のこと、また世間話など日々感じていることを書かせて頂くページです。
出来る限り更新致しますので、お時間のある時などにお気軽にお立ち寄り下さい。

2004|01|04|06|07|10|
2005|03|04|07|09|10|
2006|01|08|10|11|
2007|05|06|07|09|10|

2007-10-24 稲崎栄利子展について

28日まで開催をいたしております「稲崎栄利子展」のテキストを外舘和子氏に書いていただきましたので、作品鑑賞の参考にしていただきたいと思います。

なお、ご来館の皆さんは、稲崎さんの作品の凄さにびっくりされておられます。

  触覚的な気配の具体的なかたち−稲崎栄利子の陶芸的光景

             外舘和子(茨城県つくば美術館主任学芸員)

1 用途を越えて

稲崎栄利子は、1972年、兵庫県明石市に生まれた。

日本の美術大学の中でも、デザインやプロダクトをリードする武蔵野美術大学短期大学部の工芸デザイン科に入学し、初めて土に触れている。

工芸や陶芸の教育においては、大まかに、デザイン(設計)や用途の領域からアプローチする場合と、アート、表現として捉えて取り組む場合とがあり、それぞれの大学や教育機関ごとに多様な工夫も見られるが、日本では素材や技術を知ることから始める表現として陶芸を指導する在り方が西洋に比べ顕著である。

武蔵野美術大学の場合は、素材や技術をデザインに応用していくことに実績があり、稲崎の師である加藤達美は、その陶磁器分野における代表的な作家の一人である。加藤は、鑑賞目的の一品制作も手掛けるけれども、陶芸史の上では、まず、少量、中量生産の実用陶磁器の近代化、現代化に貢献した作家なのである。個人クラフト、工房プロダクト、工場プロダクトなど、日本の多様な実用陶磁器の創造システムの発展史の中で、この作家の果たした役割は重要である。

しかし、稲崎の興味は、量産の実用陶磁器に期待される用途、機能性、設計や効率といった世界とは別の方面に向いていた。

コーヒーカップや型成形のティーポットなどのテーブルウェア、あるいはタイルなど、短大の課題に追われながらも、アルバイト先でデザインや工芸以外の様々なジャンルの関係者と交流し刺激を受ける日々であった。用途や機能をどのようなかたちにするかというよりも、表現することの面白さを追求する方に惹かれていった。

その関心を初めて実際にかたちにしたのは、同短大の卒業制作である。用途前提の制作をずっと強いられてきた稲崎にとっての最初のオブジェ。松ぼっくりのように土のチップを集積させた5点組のその作品は、人の勧めで応募した1993年の朝日現代クラフト展で優秀賞を受賞する。「初めて素材に関心を持つことができたし、続けたいと思いました」と作家はいう。短大から同大学の造形学部工芸工業デザイン学科に進学、さらに京都市立芸術大学の大学院で陶磁器を専攻した理由もその辺りにある。以後、いわゆる日常生活や用途の問題とは別次元の、より純粋な自律的表現としての陶芸に、稲崎は迷わず向かっていくのである。

2 制作=生作

稲崎は、既に“女性優勢”の時代に陶芸を学んだ世代でもある。つまり、美大、芸大の男女比において女子が多勢を占め、勢い、公募展等でも女性の入選、受賞が珍しくない時代、さらにいえば女性であるが故に注目されるなどということ自体が、既に過去のこととなりつつある世代の作家である。

強いて、稲崎に女性「らしさ」を見いだそうとするならば、この作家が社会のヒエラルキーや既製の価値観、通念といったものと、一線を画したポジションを維持しながら制作を続けていることにあるだろう。

言説によって自らを主張し、外交性を発揮することで作家としての自己を確立し、自己プロデュースしていく欧米的な、あるいは狭義の現代美術的な在り方が、陶芸家の世界にも拡がりつつある現代にあってなお、「世間並に」などという感覚すら持つ事なく、“制作=生作”とでもいうべき生き方を、誰に強いられるでもなく貫いてきた作家なのである。 近年、筆者は「どうしたらやきもので食べていけますか」といった類いの質問を、学生たちから受けることが少なくない。「せめて『どうしたらやきものを続けていけますか』と尋ねるべきではないか?」と問い返すのが常である。

恐らく稲崎のような作家は、いずれの質問とも無縁であろう。稲崎は食べるために作るのではなく、作りたいがためにやむなく食べている、というようなタイプの作家である。

言うなれば、稲崎の陶芸は、生命維持のためのパンを、目にも楽しく味も良いパンにグレードアップするというような次元での「生活」の質的向上に貢献するのではなく、パンや水が肉体を支える以上に根源的なレベルでの切実な「生」を支えるための創造なのである。 

やきもので表現するという行為を通してしか自己の生をまっとうできないような陶芸との結び付き方、とりわけ、素材との直接的で固有の関係を得ることで初めて世の中と繋がる回路を獲得するような、究極の“実材主義者”の一典型が、稲崎の姿にある。それは単に懐古的、理想主義的なアーティスト像といった観念の次元ではなく、作家自身にとって、よりリアルで切実な姿勢なのである。

2005年に筆者が四国、高松市にある稲崎の工房を取材した折、作家は「年の三分の一とか半年くらいは労働に徹し、残りは制作に集中します」と語っていた。制作中の乾燥を克服するため、箱状の覆いの中にさらに土でカマクラのようなものをこしらえてその中に制作対象を置き、あたかも何か希少な小動物でも育てるように、黙々と手を動かす作家がいた。その作品は後に、国際陶磁器フェスティバル美濃'05(第7回)に出品され、銅賞を受賞している。

2007年の10月初旬、「相変わらずあの小さな部屋でひっそりと制作しています」というメッセージつきのファイルが筆者の元に届いている。相変わらず稲崎は、一人静かに土と格闘しているのである。

3 語り出す“先端”−増殖的フォルムの展開

朝日現代クラフト展デビュー以後、比較的初期の稲崎のオブジェは、例えば《ある山での暮らし》(1997年)のような、やきものの色彩と質感を生かした木の実の如きかたちをしている。自然の空気感や柔らかな日差しをやきもので表現したとでもいうべき、詩情ゆたかな作品である。

そうしたオブジェを1998年にガレリアセラミカで発表した後、稲崎はしばらく陶芸から離れていたが、2003年秋、信楽陶芸の森のアーティスト・イン・レジデンスで制作を再開する。

そこにとげ状のものが表れ始めるのは、2004年のことだ。

前述のメッセージファイルによれば、それは「床の間に、花の代わりに置けるようなものを習作的に」作ったのだという。作家は《小さな「間のための風景」》(註)というシリーズと題して、「潮の花冠」(2004年)、「草原のオパール」(2004年)、「月の切株」(2004年)など、密度の高いオブジェを制作している。それは確かに床の間にふさわしい単体の置物様式をとりながら、内容はそれぞれ一つの風景をなしている。

うつわの中から細いとげ状のものや薄い貝殻風の切片が生えてきたようなこれらのフォルムは、確かに花器に生けた花や、鉢植えの植物を思わせる。

ただし、制作の実際は、うつわを作って、そこに「植える」のではなく、トゲやチップのような小単位が、1つからスタートし、次第に周囲へ増殖していったものを、ある時点で土のガワで包むという、演繹的手法により成立している。小さな単位の増殖という意味で、朝日現代クラフト展に出品した松ぼっくりのようなオブジェと同じ発想の成形方法である。

また、幾つものぶつぶつとした長石の粒が宝石のように光る外側と、小さなかたちの「増殖」によって成長したかのような内部とは、「花器(鉢)」と「植物」というような個別のものの組み合わせではなく、例えば貝殻と貝本体のように、互いに結び付くべき一体のフォルムとして成立している。

そして「とげ」は次第に、その先端がものを言うようになった。

「なぜ、この感じが生まれ、作りはじめたのか、全く分かりません」という作家の言葉に拠るならば、それらはある日作家の内側から湧き上がるように現れたものだ。「とげ」の先端は、あるときは、ぶつ切りの断面に施された金彩が発光するかのように点々と輝き、あるいは白い小さな爪のような先端が「とげ」の毛流れを強調する。

細いかたちのカーブの集積によって、フォルム全体に一種のムーヴメントが生じ、その動態としてのフォルムが、風や光や影のごときかたちなきものを、目に見えるかたちとして出現させるのである。

具体的には、《a mineral》(2004年)、《afterimage(残像)》(2005年)、《雄鳥》(2005年)、《pilgrimage(巡礼)》(2006年)と、色彩は抑制され、繊細な「とげ」のうごめきそのものに焦点が置かれるようになった。《a mineral》のように、信楽陶芸の森という、大サイズにも挑戦し易い設備や窯のある制作環境により、やや大きな作品も生まれている。 ざわめく空気、きらめく光、あるいは雄鳥が全身の羽をふるわせて雌鳥に求愛するときの動的な生命のありようなど、作品はいずれも、見る者の視覚を通して、その触覚的感覚をゆさぶる集積のフォルムである。ざわざわとした空気が、常に凝縮されたかたちから湧き上がる。五感によってしか掴みえないような光景に対して、実体を伴うある輪郭を与えることが稲崎の仕事であるといってもよいだろう。複雑多岐な要素をやきものでこそ成し得る一つの姿に具現化した作品は、我々の深層を視覚を通して触覚的にゆさぶるのである。

4 まだ見ぬ光景を求めて 

そして2007年の《Solo》。今回の目黒陶芸館では、これともう1点、最新作が展示されるはずである。

「とげ」は磁土の粒として黒いボディに埋め込まれ、全体が強靭な触手のようなフォルムを形成している。ボディの一部には、信楽の土の粒を生の状態で顔料をくぐらせ、ラップで挟んで布状にしたものが貼られている。顔料の色を殺すことのないよう、焼成は1250度程度に抑えなければならない。

従来の作品では、いったん植えた「とげ」などは作家自身さえも二度と触れることのできないデリケートな構造をなしていたが、本作品では、埋め込まれた粒や色鮮やかな部分までもが、より確かな一体感を得た逞しいフォルムとなっている。周囲の空気を単独で制御する力強い存在としての「Solo」。メッセージファイルの中で、この作品について稲崎自身は次のような言葉を寄せている。

「立体の白粒のおりなす面やカタチ、光、影の風景を自身が見たくてつくりました。入れ墨のように一刀一刀傷に染料を入れていくように、その粒もひとつひとつ埋めていく。それらのテクスチュアが立体としてなりたっていくのを眺めながら作りました」。

作品は触覚的な気配とでもいうべきものの具体的なフォルムである。換言すれば、稲崎栄利子の“陶芸的な光景”のかたちといってもよい。まだ見ぬ特別な光景を求めて、稲崎栄利子自身の触手も日々動き続けている。

註:この作品をはじめ、ゴシック表示の作品は今回の目黒陶芸館個展に出品される。

本日のツッコミ(全99件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ grousnoro [soring eagle casino and resort <a href="http://www.soccer..]

_ grousnoro [computer games brain damage sunday times magazine <a href..]

_ KARACASHSPAGS [game cube iso <a href="http://www.shattuckdownlow.com/pro..]


2007-09-19 長谷川直人展について

9月29日(土)〜10月6日(土)まで開催をいたします「長谷川直人展」のために、つくば美術館主任学芸員の外舘和子氏にテキストを書いていただきました。作品鑑賞の参考にしていただくと同時に、是非ご来館いただきますようにご案内をいたします。

第五プロセスの陶芸−存在のリアリティをめぐる長谷川直人作品の無我と自我

            外舘和子(茨城県つくば美術館主任学芸員)

1 日本画志向−京都に生まれて

長谷川直人は1958年、京都の生まれである。2007年9月2日、京都駅から地下鉄烏丸線で南に一駅、九条から徒歩数分のところにある長谷川の工房を訪ねた。

独立して自分の仕事場をここに持つまで、長谷川は少年時代を金閣寺の近くで過ごしている。京都の工芸に関係する家の生まれというわけではなく、父親は中学校の理科教師というサラリーマン家庭で育っているが、とにかく絵を描くことが好きな子供であった。

十代のころは画家になりたかったという。

「画家」といえば、戦後生まれなら普通、油彩画家を指すであろう。しかし長谷川直人の場合は、あくまでも「日本画家」であった。実家のある小松原北町付近には、日本画の大家がひしめいている。長谷川が中学時代に習っていたのは油絵だったが、風景画を得意とする日展の日本画家浜田昇児に、しばしば見せに行っては批評を仰いだ。

憧れの作家は徳岡神泉(1896−1972)であったという。美しい風景であれ、可憐な花であれ、「風景や花そのものを描くことが目的なのではなくて、その背後にある世界観を表現すること。絵ってそういうものだ、ということに気づいた時、すごいと思いました。特に晩年の象徴的な表現が好きです」(註1)。“具体的イメージの向こう側にあるもの”を求める長谷川の志向は、絵画に対する関心の中にも既に芽生えていたのである。

京都画壇という表現が美術史の世界にも定着しているように、京都−日本画という繋がりは今日なお強固なものがある。それは、陶器や染織−京焼、西陣織、友禅などと同様に、時にはそれ以上に、京都という土地柄を強力に語るものでありうるだろう。実際京都の日本画の権威は単なるイメージではなく、日本美術の近代性の獲得という点でも、確固たる実績に裏付けられている。楠部弥弌によれば、大正8年「陶器なる芸術」を志して団体「赤土」を結成したのは、前年に京都の若き日本画家たちが新しい日本画の創造を求めて創設した「国画創作協会」に触発されたからである(註2)。

しかし、長谷川が日本画にひかれたのは、必ずしも京都に出会いの多かった日本画家たちの存在だけではなく、むしろ彼らが使用する「岩絵具の魅力」であった。

「油絵具の方が自由にイメージは描けますが、自由に描けることより、岩絵具のテクスチャーで何かを表現することに興味がありました。それは陶芸と近いような気がします」。

確かに油彩画に比べ、日本画はやきものに似た条件をもっている。例えば一定の段取り

やプロセスを辿って画面を構築すること。紙の上にドウサをひいてにじみを防ぐ、膠(にかわ)を溶いて糊代わりとする、胡粉などで下地を作る、岩絵具のつぶし具合(粒子の大きさ)で色の濃度を決定するなど、今日では材料や道具の進化はありながらも、昔ながらの工程を基礎とする発想は、成形−乾燥−施釉−焼成を基本とする陶芸に近しい。物質、鉱物質の素材をじかに取り扱うような感覚も両者に相通じるものがあるだろう。

長谷川の現在の勤務先でもある京都市立芸術大学は、長谷川が受験する頃、造形コース・工芸コース・デザインコースの3コースに分かれており、造形コースの中に洋画・日本画・彫刻があった。造形コースの受験に2回挑戦したのち、工芸コースに入学した長谷川が陶磁器を選んだ理由は、やはり「日本画に近い感じがしたから」だという。「日本画」を「造形」と捉える京都芸大の発想にも極めて先進的な思考がうかがわれる(註3)。藤平伸、鈴木治、河本明、小山喜平ら錚々たる教官らの指導のもと、長谷川の“物質による、より直接的な表現”への関心は、陶土を手にした時点でさらに開発されていくのである。

2 “第5プロセス”の採用−表層から構造へ

日本画に対する造形観の中にも胚胎していた物質、素材による直接表現は、その“層的な構築”という方法で、長谷川の陶芸に表れていく。

当初は、丸みを帯びた形態を手捻りし、そこに化粧土を30から40層にも薄く重ね、乾燥後、水をあてて、層を部分的に崩していくという手法で制作していた。水流により、ある部分は表面に近い層が、別な部分はさらに深くえぐれてもっと下の層が覗く。それを焼成すると、独特の“古びの姿”ないし“ある時間を内在させた姿”が生じる。学生のころから取り組み始めて卒業後4、5年目に、長谷川のそうした手法は一定の完結をみている。

そして、1992年頃から、この作家の“古びの美学”は、さらに別の次元へと展開をみることになるのだ。

それは、成形の最後、乾燥の後で表面に水流をあてるのではなく、本体から表面までの全てをまるごと層的な構造体として取り扱うという方法である。

まず、耐火性の高いドウセンボウという土を使い手捻りで一種のうつわ型−外型を作る。その内側に剥離剤としてのアルミナ、さらにその内側に陶土、そして中心部に発泡性の釉薬に相当する素材を充填する。焼成中に、内部が気泡の発生に伴い収縮、変形を始め、その結果として最初の外型とは少々異なるフォルムへと変貌する。

窯から取り出した後、外型を割り出し、慎重に中身を取り出していく。あるときは外型と、そのすぐ内側の土の層が結合を起こして作品のテクスチャーとして残存し、またあるときは外型を外す際に中心部の釉薬状の部分までが割れて無数の穿孔のある内部が露になる。取り出されたかたちは、外側に土質、内部に釉薬質という、通常のやきものといわば逆の層を形成する構造体として生み出されるのである。

型成形を造形的な表現の手段として使うことは既に鈴木治らいわゆる戦後前衛陶芸の第一世代の作家たちが積極的な取り組みをみせている。

また、近年では、焼成後のやきものに手を下すことを、単なる仕上げや想定外の結果のフォローといった手続きとしてではなく、その作家の表現のポイントとなる重要工程として捉える手法が、徐々に見られるようになった。成形−乾燥−施釉−焼成という陶芸の基本4工程のあとに続く、“焼成後の工程”を筆者は“陶芸の第5プロセス”と呼んできた。

例えば同じ京都芸大に学んだ藤田匠平は磨きなどを第5プロセスとして用いる作家であり、早逝の陶芸家西田潤は型成形ならぬ型焼成の割り出しを第5プロセスとして持ち込んだ作家であった。田嶋悦子が93年から用いている、パート・ドヴェールにガラスと陶のジョイントといった手法も、一種の第5プロセスの採用ということができるであろう。

もちろん歴史をさかのぼれば、八木一夫の「積んでいくオブジェ」(註4)や、漆、カシューによる着彩、陶と鉛板による“接着作品”をはじめ、80年代に台頭し始める焼成後の“ジョイント作品”など、今日の“第5プロセス”に通じる布石といってよい仕事に行き当たる。

長谷川直人は、20世紀後半から21世紀にかけて生じたそのような戦後陶芸史の系譜の最前線で仕事をする作家の一人である。八木一夫のように一種の反陶芸的手法までも自在に自分のものとする振幅の広い作家を別にすれば戦後陶芸の第一、第二世代の作家の多くにとって、そうした窯出し後のプロセスは抵抗感を拭いがたいものであったが、第三世代の作家たちは、それぞれ必然の文脈において各自の第5プロセスを採用してきているのである。

3 存在そのもののリアリティをめぐる無我と自我

作品の最終イメージの決定を窯にゆだねることを拒絶し、リスクを承知で作品を再び慎重に我が手にかけることで、長谷川の作品はどこまでも存在のリアリティに迫っていく。作家は自身にとって最もスリリングな第5プロセスによって、素材の化学変化という現象を表現のレベルへと進めていくのである。

その複雑さにもかかわらず、ある必然性を伴う作品のテクスチャーは、その物質的美しさを主張するのではなく、むしろその作品が存在することそのものの尊さを支持している。声高なメッセージを発するのではなく、かけがえのない親密な出会いが作品と受け手の間に成立することが作者の意図なのである。

「作品のある部分や全体のかたちに触発されて、見る人の記憶の回路が動き出し、見る人と記憶の断片とが繋がりあうこと。そのとき[作家は作品と切り離された存在]であってもいいと思うのです」と長谷川は言う。「ニュートラルな存在」としての作品を志向する長谷川の姿勢は、今なお表現者としての長谷川の憧憬対象であるという徳岡神泉の次のような言葉と通じるものがあろう。

「対象と自己との間には、自己意識や俗塵などの雑念妄想が雲のように去来している。 それらの俗念を払いのけたとき、はじめて対象即自己となり、遂には[自己もなく対象

そのものもない世界]に到達しうる。その境地が自分の求める世界だと信じた(傍点筆者)」。

長谷川の「作家は作品と切り離された存在」であるという思考は、「自己もなく対象そのものもない世界」を求める徳岡神泉の思想に照応する。それは作品の自律性という意味での近代性を示してもいる。

近代日本画の巨匠、徳岡神泉はその芒洋としたイメージの象徴性の中に“忘我無対象”を追求し、長谷川はその複雑なテクスチャーと組成の中に“無我無対象”を実現しようとしている。それらはいずれも、作品の個別性と普遍性との共存を意味するであろう。

存在のリアリティを探求することの中に自我を昇華しようとする制作、換言すれば作品の存在と引き換えにエゴを取り去ろうとする長谷川直人の逆説的な個の表現に、21世紀的陶芸表現の一つの在り方を見るのである。

註1:筆者インタビュー、2007年9月2日於京都。以下、文章中の言葉はこれによる。

註2:「対談閑話」『毎日新聞』1968年。

註3:外舘「構造としてのかたちとイズムとしての実材表現、あるいは日本的造形史観」   『素材×技術からフォルムへー布と金属ー』茨城県つくば美術館、2007年7月。

註4:外舘「陶芸史における<オブジェ>導入の経緯と非実用的陶芸としてのオブジェの   成立−《ザムザ氏の散歩》と八木一夫の作家性をめぐって−」『東洋陶磁』35号、   2006年3月。



本日のツッコミ(全100件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ Listgoveema [buy cytotec dubai how much does misoprostol cytotec cost <..]

_ Luekadiszeo [generico do flagyl nistatina flagyl 250 mg price <a href=h..]

_ Clothancopo [price of xenical in philippines xenical selling price <a h..]


2007-07-18 中島晴美展について

7月22日よりの中島克子展のテキストを金子賢治氏に書いていただきましたので、作品鑑賞の参考にしていただきたいと思います。

         「フォルムの力:中島克子について」

              金子賢治(東京国立近代美術館工芸課長)

1.『花の器』

中島克子さんは、1975年頃から10年近くの制作中断時期(子育てによる)があるにもかかわらず、公募展の受賞歴、入賞歴が実に豊富である。私にとって、中でも印象的なのは、91年の『ストリート・ファニチャー』(世界陶芸祭―公共空間への提言)コンペティション 優秀賞と『花の器』(第4回国際陶磁器展美濃’95)である。また『陶製ベンチ』(第5回国際陶磁器展美濃’98 銅賞)は前者の流れに、『花の器』(第3回国際陶磁器展美濃’92)は後者と同じ系統に位置づけられる。

前者がいわゆるインダストリアル・デザインの系譜に連なるものであることは言うまでもないが、恐らく後者も作家本人の意識の中ではデザイン作品という思いが強いと推測される。

2.原風景

克子さんは大阪の電気店を営む両親の下に生まれ、大学受験ギリギリの高校3年の後半に美術大学進学を志望したという。その時はデザイン科志望であった。

それには原風景がある。克子さんは小学校のときから美術の時間によく褒められ、習字もよく貼られたと言う。そして外部のコンペに先生が出品すると、しばしば受賞したのである。後年の受賞作家を予測させるエピソードだが、5年のとき、思い知らされることが起こった。

「カネボウかなんかが主催する募集に、全校生徒にやらせたんです。その時に、科学少年みたいな子が、汚いというか綺麗というか、何というか色だけというか、そういう絵を描いてきたんです。その時思ったんです。私のは媚びていると。そしたら、沢田君のだけが通った。その時、表現というのはこういうことなんだと思ったんです。でも、私にはできない。だから、美術の先生ではない普通の先生が見る場合は、私が通るんです。でもプロが見たら、その子なんです。だから、デザインならいけるのではないかと。」(註1)

この時期の判断が正しいか否か、そんなことを言っても無駄なことである。大事なことは、こうした細やかな判断をする克子さんの感受性である。すでに表現とデザインという、日本の近現代工業が抱えてきた根本問題(註2)にリンクする意識が産み出されているのである。

3.陶芸事始―信楽へ

こうした体験を原風景として、克子さんのデザインを求める旅が始まったのである。その始まりが大阪芸術大学デザイン科のインテリア・デザインであった。平面はあわない。何かもの、つまり道具を作りたいと思った上での選択であった。

しかし、当時は70年安保に向かう時代、学生運動が激しくなりつつあった頃。とにかく学校はガタガタガタガタ、揉め事ばかり。落ち着かない日々であった。そしてともかく卒業(68年)。はっきりしないまま、建築設計の事務所の門をたたいたりした。そして結局、最初から最後まで自分の手でできるやきものをやろうと決心したのである。

芸大時代から何となく意識していた焼き物だったが、なかなか切っ掛けがつかめなかった。

 「最後まで自分でできるというのは少ないんですね。やきものならやれるんではないかと思ったんです。「やきものをすることにしたわ」と自分で勝手に決めて、市役所で紹介されたところへ行くわって友達に言ったら、「そんなの駄目だ」と言われて、そんなややっこしい焼屋さんに行かずに、信楽に知っている所があるのでそこへ行ったらと言われたんです。」

それが信楽の川崎千足工房であった。当時の信楽は、彫刻的な陶芸制作を行いつつあった川崎(69年、信楽で堀内正和、辻普堂ら30名と彫刻展開催)、走泥社同人笹山忠保(67年同人となる)、伝統工芸展に入選し始めた大谷司朗(69年初入選)などが活躍する時期で、当時すなわち70年代前半の現代陶芸界の特質のいわば縮図を見るがごとき地域に投げ込まれたのである。

60年代後半に、走泥社の八木一夫、熊倉順吉を中心として、いわゆるオブジェ焼の作風が確立し、戦後陶芸の問題点が、実践的に飽和点に達しつつあった。陶芸は実用だ、伝統だ、いや造形だ、彫刻の方が上だ、というような後に整理されはっきりしてくる工芸的造形をめぐる諸問題が一斉に吹き出した時期である。

そこにもの派と一時制作と行動を共にし、70年には独自の彫刻作品を作り始めた小清水漸が、73年にやってきたりした。彼は茶室の空間とか茶道具を見立てた感覚が日本の彫刻の歴史を支え、工芸とのかかわりを無視して日本の近代彫刻を語ることはできないという考え方(註3)に至った人で、そうした問題意識が陶芸に対する関心を持ちはじめたのである。

4.焼き物とは?―その構造

やきものとは何か、現代美術とは、と言うような問いを発しつつ、時は焼き物ブーム。信楽にも観光客が急に押し寄せるようになり、制作に忙しい毎日であった。

デッサン通りにきちんと作る小清水。しかし質感は焼き物そのもの、実に表情がうまいと思ったという。普段の窯物を作るときと立体造形作品を作るときと、土の扱い方が全く違う作家。デザインはしても、制作の過程で少しずつずれていく作家。

こうした様々な体験から、克子さんは「焼き物は器だ」という確信を持つに至るのである。そしていまだに表現が苦手、作るのはデザインだという思いがしていると言う。

しかし、私はそうは思わない。というのは、冒頭で述べた92年と95年の『花の器』の存在感はただものではないと思うからである。この作品の持つ、幾何学的な規矩のキッパリとした様式、それとくっきりとした対照をなす球体の一部を切り取ったような心地よい曲面。その融合によるモダンなフォルム。そして、ふと作りの堂々たる取っ手が全体を引き締めている。まさにモダン・クラフト面目躍如の作品である。

この形態は、まさに図面通りといっても過言では無い。実際の制作過程は別にし、そうした様式的特徴を持っているのは事実である。しかし、この形は一朝一夕に生み出されたのでは無い。それが陶芸ないし工芸という素材を予め限定することを出発点とする、現代世界の中で極めて特殊な造形の特徴である。

例えば深見陶治の作品の形態を見て「あれは彫刻です。そうとしか思えません。」というのを褒め言葉であるというのが現代の通年である。しかし、それは彫刻とは本質的に違う過程の中で生まれてきたものである。彼のフォルムは、陶土、磁土、器、オブジェ、インスタレーション、鋳込みを生業とする家庭に生まれたことからくる揳癖癖など、様々な体験、経験から生まれてきたのである。

それを一作品のだけの発想から完成へというプロセスだけを切り取れば、確かに彫刻的に見えるだろう。しかし、そのフォルムは様々な土の構築の経験、その可能性と不可能性を見定めて後に至ったフォルムである。紛れもない陶芸、工芸的造形なのである。

克子さんの『花の器』も全く同断である。それが独特の強さと迫力を生み出している要因である。これからもその力強いフォルムをもっともっと追求していってもらいたいと思うのである。

1. 中島の言葉は、すべて本年6月のインタビューによる

2. 金子『現代陶芸の造形思考』(2001年、阿部出版)参照

3. 北沢憲昭「作業代、もしくは虚構の大地」(「小清水漸」展カタログ、1994年、西宮市立大谷記念美術館)

7月22日より開催いたします「中島晴美展」のテキストを、愛知県陶磁資料館学芸員の大長智広氏に書いていただきましたので、作品鑑賞の参考にして下さい。

       磁器の造形―中島晴美の現在性―

                大長智広(愛知県陶磁資料館学芸員)

僕の奥さんが、口を塞いでマッスに見せてる昔の作品は好きではなかったって、いま頃いう。棘をつくったりする作品は、興味がなかったというのね。だけど、やきもの本来の姿、つまり器に戻ったから、最近はいいなという。磁器の白さとか、呉須の青とか、やきもののよさから造形に進んでいるから。

僕が作っているものは、器なんです。だからたまたま、飲める飲めないという話になるけど、食器でないとしたら、もっと大きかったりふくらんでいたり、引っ込んでいたりしても構わない。(註1)

これは、『つくる陶磁郎38』誌上で行われた対談から引用した中島晴美の発言であるが、短いながらも中島の造形の現在性を端的に示しているといえる。

磁器特有の色感と素材感を全面に出しながらうねるように反転し、その反転が次の反転を誘発するという連鎖によって全体のかたちが構成されていく。これが中島にとって模索を続けながらたどり着いた造形の現在である。そして中島が磁器を素材として手捻りによる作品制作を始めてから数年が経過した今日、素材の質感や特性と中島の技術、感性とが調和を見せ始め、中島が目指す磁器としての造形がかたちとなって現れてきたように思われる。

そのかたちとは、素材そのものが白い磁器を造形素材としてあらためて選択し直したことにより新たな造形の地平へと展開したものである。今述べたように、磁器は白い素材である。そしてその磁器の白さが中島の作品にみられる反転をやきものとして造形上意味を持つ必然的構造へと導いている。つまり、磁器特有の白という色は、白化粧のようにフォルムの表面を覆う加飾とは異なり、素材そのものの色であるために、やきものの表と裏、内と外で断絶することのない全体的統一感を作り出し、やきもの特有の内部空間を解放する試みである反転を通じて内部と外部の関係を問いかけるのである。そして一枚の皮の様に見える土の輪郭線は、曲面を多用した作品に線的動勢を与えると同時に、歴史的にやきものという立体物が有する特殊な内部空間の存在を規定してきた「口」の役割を内部空間を解放させる中島の造形において象徴的に担うのである。

また、作品全面に施された中島の代名詞とも呼べる青色の水玉は、中島がかつて勤務していた多治見市陶磁器意匠研究所で研究したイングレーズという技法によるものである。これは一見すると染付のように見えるが、実際には染付のように釉下彩ではないことから色感が微妙に異なっている。しかし素材を磁器としたことで、陶土による《苦闘する形態》など従来の作品以上に磁器の装飾技法として数百年間も用いられてきた染付との関連性を想起させ、やきものの歴史性との有機的関係の中で中島の現代性を浮き彫りにする。加えて濃淡や大きさを変えながら裏表無く全面に施された水玉は、鑑賞者の視線を誘導することで反転による造形上の連続性を強調するのである。

ここで述べてきたものはいずれも中島の造形感覚を通じて磁器という素材をあらためて選択し直したことに由来するやきものの表現としての構造的一体感である。その意味で、やきものとしての造形的必然性や中島の造形感覚を構造化、具現化させる試みからいえば、従来よりもやきものに深く根ざした地点でその思考と造形的展開が行われているといえよう。

当然であるが、やきものは土を唯一の造形素材とするものである。それにもかかわらず、通常、やきものの素材について言及する場合、「土」という一言で漠然と済ましてしまうことが多い。とはいえ、実際には「土」の違いによって陶器と磁器とに分けられるだけでなく、地域や粘土層等の違いによってもその組成が異なるように素材としての土は多様である。それは古来やきものの産地として栄えた地域をみても、それぞれの地域で産出する特徴的な土がやきものの性格を決めてきたといえる一面があることからもいえる。

しかしながら、今日、流通が発達したことにより、産地で制作するしないにかかわらず日本中のどこにいても気に入った土地の土が手に入り、またあらかじめ使いやすく調合された無性格な土も溢れている。現在のこの状況は、従来のように土がそこにあるからというだけではなく、陶芸家にとって土はその選択の段階から表現素材として作家の明確な造形思考との関わりを持つものであり、自身の造形思考に沿うかたちであらためて素材としての選択が為されるべき対象であることを逆説的に示している。その意味において、産業的、商業的視座ではなく、近代的意識を有する陶芸家として自身の造形感覚を具現化するという創作的観点からみると、表現活動の根本としていかなる素材を選択し、素材と作家自身とがどのように関わるのかという問題は創作活動の出発点である。同時に素材を陶の造形として成立させるために必要となる様々な技術も大切な要素となる。つまり、土を素材とし、成形、焼成を経て全ての美的要素を引き出すための独自の制作過程を必要とするやきものは、他の芸術分野と比較しても、素材、素材を造形作品へと昇華させるに必要な技術、そしてその中で制作者の自己との密接な関係を通じて成立する特殊な芸術分野なのである。中島が頻繁に口にする言葉に「土と私」、あるいは「土と僕の関係」というものがある。このように土と自身との関係を築くということは、中島にとって土でものを作ることの本質的意味や陶の必然的造形を探る試みを意味している。磁器という素材から導きだされた現在の中島の造形を考慮すると、これまでの試みと展開が必然的過程を経て為されてきたことがわかる。

昔、〈意匠研〉でイングレーズの開発もしてたんですね。それで自分の作品には、イングレーズで黒のドットをやった。しかし、滲み込む感じはやっぱり磁器、染付ですよ。真っ白い磁器のようにしないといけないから、陶胎に白化粧をして、透明釉を掛けて還元で焼いて、呉須をイングレーズですよ。そうすると、カチーンて感じになるかと思ってた。(註2)

これは、かつて陶器で制作していた《苦闘する形態》を指しての発言である。このシリーズは、周知のように中島独自の造形観を確立させ、国際的にも中島の知名度を高めることになった。しかし、それは上記の中島の発言にみられるように「磁器」の質感を借りながら白化粧とイングレーズによる青い水玉模様の装飾を施した作品であり、中島が自作に求めたやきものとしての最終的なイメージとはずれたところに成立するものであったといえる。つまり、中島が近年素材として新たに磁器を選択し直したのは、自身のイメージと「磁器」を借りながら制作された作品との間に存在した従来のずれを修正し、やきものが有する実在感や歴史性の中で自己と素材との関わりを通じてやきものの造形における構造的一体感を求めたからである。中島は先の発言に続き、今後の展開について問われた際に次のように答えている。

磁器になっていく。昔の有田の雰囲気に近づきたいのよ。だから、やきものということをいっているのだけど、伝統工芸ということを。(註3)

中島が、慣れ親しんだ素材や技法による従来の表現世界に安住することなく、素材を磁器に変え、新たな一歩を踏み出したのは、2002年に招聘されたオランダEKWCにおける滞在制作中のことである。そこで中島は日本では従来、非常識だと思われていた手捻りによる磁器成形に挑戦し始めたのである。

日本では磁器を手捻りで行うということは、磁器という素材の性質との関係から試みられることは陶磁史上ほとんどなかった。これは磁器の性質として成形から乾燥、焼成という過程における素材の変化が大きいことやかたちの変化を素材が記憶する性質を有していることなどに由来するものだが、そのために通常、磁器成形においては轆轤水挽き成形か人の手が直接に素材に触れず人工的な圧力を掛けることがない鋳込み成形が合理的な成形技法として採用される。現在では技術と素材の特性との関係を再解釈していくことで新たな表現の可能性を見出す陶芸家も存在する。しかし長い陶磁器の歴史を顧みると、一般的に磁器は陶器に比べ素材の特性と技法との結びつきが強く、技術的、素材的特性からくる制約から新たな創造的展開へと移行させることが困難な素材だといわれている。それが磁器制作におけるある種の既成概念を生み、手捻りによる成形が発達しなかった理由にもつながるのである。

それに対し、中島は近年、素材を陶器から磁器に変更し、本来は手捻りに向かない磁器土に紙を混ぜるなどして、技術的困難を克服することで磁器を手捻り可能な素材へと変貌させた。同時にその素材で自身のイメージを適切に具現化するために必要となる土を捻る技術そのものも修練によって向上させてきた。中島にとって手捻りで成形するとは、自身と土との関係が最も密接につながる成形技法である。そのために中島は自身の最終的なやきもののイメージと個人の表現である造形とを一体化させる素材として磁器を選択し、手捻り技術の向上に取り組むのである。現在の磁器を反転させる造形が成立するのはその結果であり、それが「やきもののよさから」造形を展開させる現在の自身を「伝統工芸の作家かもしれない」(註4)とみなす理由でもある。ここで重要になるのが、やきものとの関わりを通じて長年蓄積してきた中島の経験であり、その経験をもとに、やきものに対して持つイメージを構造化し自身の造形へと具現化させていく創造の背景とその過程である。

1980年代末から90年代にかけて金子賢治などを中心に陶芸は素材・技術・プロセスによって成立する芸術であるとする工芸的造形論が提示された。日本では1940年代末から50年代にかけてやきものでオブジェが制作されるようになり、それ以降、今日までやきものは社会背景や他の美術領域とのジャンル横断的な交流、あるいは芸術理論を借りながら様々な実験的試みが為されてきた。こうした実験的試みの多くは陶芸における表現領域を拡大し、土を用いた作品を西洋近代的概念でいう美術に近づけるという視点から見れば成功したかに見えるが、その反面で無自覚的拡大は陶芸という特殊で固有のジャンルを解体へと導く危険を有するものであった。ここでは固有のジャンルという言葉を用いたが、ジャンル横断的な動きが盛んな今日の芸術界ではジャンルのようなある種の枠組みは解消の方向に向かっており、一部ではその垣根が消滅してしまったかに見える。しかし、そのような状況であるからこそ土を単なる造形素材の一つに還元してしまうのではなく、土を用い、焼成という行為を通じて表現活動を行うことの意味や陶による必然的造形とは何かをあらためて問い直すことは重要であると思われる。先に言及した金子を中心として提唱された工芸的造形論の重要性とは、表現領域が無自覚的に拡大する危険を有していたやきものにおいて、土から陶に変容するプロセスにやきものによる本質的造形の可能性を見出し、土を唯一の素材として表現活動を行うことに対して一つの指標を確立させたところにある。そしてそこに付け加えていうならば、土という素材を用いて制作されたやきものには、長い歴史を通じて、いかなる表現様式であっても固有の伝統や記憶、社会性、生活感情といった様々な要素が自ずと内包されているといえる。そうした諸要素をやきものとしての構造的一体感のもとで具現化させるためには、素材である土の選択、成形、焼成というやきもの固有の制作過程個々を一度解体し、「やきもの」を構成する諸要素そのものを再検証する必要がある。それと同時に、作家個々のイメージを構造化していく造形思考の変遷が「やきもの」との有機的関連性の中で行われうるかも重要になる。言い換えると、それまでの自己の経験を解放し、新たな経験を積み重ねていくことで、「やきもの」と自己との関係を再構築していくこと、それがやきもので自己を表現するという行為を深化させていくのである。これは中島が現在の反転によって内部空間を解放させる造形を「やきもののよさ」から出発したものであり、「器」であると述べるにいたる理由、つまり中島にとっての「やきもの」へとたどり着く創造的背景にも重なるものである。

かつて中島は、走泥社の影響が色濃く残るマッスとフォルムで構成された卒業制作を始めとして、棘をデザインしていたという1986年の《コスモス色の羽を持つ鳥》、90年代以降の《苦闘する形態》シリーズを手がけてきた。《苦闘する形態》では、土と中島自身とが正面から向き合い、土の生理と格闘することによって、土を素材とし、成型、焼成という過程の中で自己を表現するというやきもの独自の表現の可能性と独自の造形観を確立した。これは土と自己との関係の中で成立するやきもの表現の本質的一面を切り開くものであった。しかし、磁器を自身のやきもののイメージの源泉とした中島にとって、その段階においては技術的、経験的背景などに由来する表現上の「ずれ」を根底に抱え込んだまま制作を行っていたといえる。しかし近年、「やきもの」と自己との関係を再構築していくことで、素材を陶器から磁器に変え、素材感や反転を加えた造形、輪郭線、イングレーズなどを統一させたやきものとしての構造的一体感の中で造形的展開を行うようになる。中島が現在の造形を「器」であると見なすのは、固有の伝統や記憶、社会性、生活感情といった様々な要素を内包させてきたやきものの歴史性と対峙し、その中で「やきもの」が有する空間性や装飾性を自身の造形感覚を通じて再解釈した結果である。

こうしてみると、これまでの中島の制作上の展開とは、「やきもの」で表現するとは何かという問いに対する自らの回答を見つけるための歩みだといえる。言いかえると、素材である土と技術、そして自己との関係を築いてきた従来の経験を解放し、新たな経験を積み重ねながら「やきもの」と自己との関係を再構築することで、独自の造形観に基づく「やきもの」を通じて自己を表現していく過程である。だからこそ、自身のイメージと作品とが一致し始め、「やきもののよさ」から造形を思考するという現地点にたどり着いた中島のこれからが興味深いのである。

(註1)インタビュー記事「やきもの界の人びと 陶芸家 中島晴美」『つくる陶磁郎38』 2007 双葉社

(註2)前掲註1

(註3)前掲註1

(註4)前掲註1

7月22日より開催いたします「中島晴美展」のテキストを、愛知県陶磁資料館学芸員の大長智広氏に書いていただきましたので、作品鑑賞の参考にして下さい。

       磁器の造形―中島晴美の現在性―

                大長智広(愛知県陶磁資料館学芸員)

僕の奥さんが、口を塞いでマッスに見せてる昔の作品は好きではなかったって、いま頃いう。棘をつくったりする作品は、興味がなかったというのね。だけど、やきもの本来の姿、つまり器に戻ったから、最近はいいなという。磁器の白さとか、呉須の青とか、やきもののよさから造形に進んでいるから。

僕が作っているものは、器なんです。だからたまたま、飲める飲めないという話になるけど、食器でないとしたら、もっと大きかったりふくらんでいたり、引っ込んでいたりしても構わない。(註1)

これは、『つくる陶磁郎38』誌上で行われた対談から引用した中島晴美の発言であるが、短いながらも中島の造形の現在性を端的に示しているといえる。

磁器特有の色感と素材感を全面に出しながらうねるように反転し、その反転が次の反転を誘発するという連鎖によって全体のかたちが構成されていく。これが中島にとって模索を続けながらたどり着いた造形の現在である。そして中島が磁器を素材として手捻りによる作品制作を始めてから数年が経過した今日、素材の質感や特性と中島の技術、感性とが調和を見せ始め、中島が目指す磁器としての造形がかたちとなって現れてきたように思われる。

そのかたちとは、素材そのものが白い磁器を造形素材としてあらためて選択し直したことにより新たな造形の地平へと展開したものである。今述べたように、磁器は白い素材である。そしてその磁器の白さが中島の作品にみられる反転をやきものとして造形上意味を持つ必然的構造へと導いている。つまり、磁器特有の白という色は、白化粧のようにフォルムの表面を覆う加飾とは異なり、素材そのものの色であるために、やきものの表と裏、内と外で断絶することのない全体的統一感を作り出し、やきもの特有の内部空間を解放する試みである反転を通じて内部と外部の関係を問いかけるのである。そして一枚の皮の様に見える土の輪郭線は、曲面を多用した作品に線的動勢を与えると同時に、歴史的にやきものという立体物が有する特殊な内部空間の存在を規定してきた「口」の役割を内部空間を解放させる中島の造形において象徴的に担うのである。

また、作品全面に施された中島の代名詞とも呼べる青色の水玉は、中島がかつて勤務していた多治見市陶磁器意匠研究所で研究したイングレーズという技法によるものである。これは一見すると染付のように見えるが、実際には染付のように釉下彩ではないことから色感が微妙に異なっている。しかし素材を磁器としたことで、陶土による《苦闘する形態》など従来の作品以上に磁器の装飾技法として数百年間も用いられてきた染付との関連性を想起させ、やきものの歴史性との有機的関係の中で中島の現代性を浮き彫りにする。加えて濃淡や大きさを変えながら裏表無く全面に施された水玉は、鑑賞者の視線を誘導することで反転による造形上の連続性を強調するのである。

ここで述べてきたものはいずれも中島の造形感覚を通じて磁器という素材をあらためて選択し直したことに由来するやきものの表現としての構造的一体感である。その意味で、やきものとしての造形的必然性や中島の造形感覚を構造化、具現化させる試みからいえば、従来よりもやきものに深く根ざした地点でその思考と造形的展開が行われているといえよう。

当然であるが、やきものは土を唯一の造形素材とするものである。それにもかかわらず、通常、やきものの素材について言及する場合、「土」という一言で漠然と済ましてしまうことが多い。とはいえ、実際には「土」の違いによって陶器と磁器とに分けられるだけでなく、地域や粘土層等の違いによってもその組成が異なるように素材としての土は多様である。それは古来やきものの産地として栄えた地域をみても、それぞれの地域で産出する特徴的な土がやきものの性格を決めてきたといえる一面があることからもいえる。

しかしながら、今日、流通が発達したことにより、産地で制作するしないにかかわらず日本中のどこにいても気に入った土地の土が手に入り、またあらかじめ使いやすく調合された無性格な土も溢れている。現在のこの状況は、従来のように土がそこにあるからというだけではなく、陶芸家にとって土はその選択の段階から表現素材として作家の明確な造形思考との関わりを持つものであり、自身の造形思考に沿うかたちであらためて素材としての選択が為されるべき対象であることを逆説的に示している。その意味において、産業的、商業的視座ではなく、近代的意識を有する陶芸家として自身の造形感覚を具現化するという創作的観点からみると、表現活動の根本としていかなる素材を選択し、素材と作家自身とがどのように関わるのかという問題は創作活動の出発点である。同時に素材を陶の造形として成立させるために必要となる様々な技術も大切な要素となる。つまり、土を素材とし、成形、焼成を経て全ての美的要素を引き出すための独自の制作過程を必要とするやきものは、他の芸術分野と比較しても、素材、素材を造形作品へと昇華させるに必要な技術、そしてその中で制作者の自己との密接な関係を通じて成立する特殊な芸術分野なのである。中島が頻繁に口にする言葉に「土と私」、あるいは「土と僕の関係」というものがある。このように土と自身との関係を築くということは、中島にとって土でものを作ることの本質的意味や陶の必然的造形を探る試みを意味している。磁器という素材から導きだされた現在の中島の造形を考慮すると、これまでの試みと展開が必然的過程を経て為されてきたことがわかる。

昔、〈意匠研〉でイングレーズの開発もしてたんですね。それで自分の作品には、イングレーズで黒のドットをやった。しかし、滲み込む感じはやっぱり磁器、染付ですよ。真っ白い磁器のようにしないといけないから、陶胎に白化粧をして、透明釉を掛けて還元で焼いて、呉須をイングレーズですよ。そうすると、カチーンて感じになるかと思ってた。(註2)

これは、かつて陶器で制作していた《苦闘する形態》を指しての発言である。このシリーズは、周知のように中島独自の造形観を確立させ、国際的にも中島の知名度を高めることになった。しかし、それは上記の中島の発言にみられるように「磁器」の質感を借りながら白化粧とイングレーズによる青い水玉模様の装飾を施した作品であり、中島が自作に求めたやきものとしての最終的なイメージとはずれたところに成立するものであったといえる。つまり、中島が近年素材として新たに磁器を選択し直したのは、自身のイメージと「磁器」を借りながら制作された作品との間に存在した従来のずれを修正し、やきものが有する実在感や歴史性の中で自己と素材との関わりを通じてやきものの造形における構造的一体感を求めたからである。中島は先の発言に続き、今後の展開について問われた際に次のように答えている。

磁器になっていく。昔の有田の雰囲気に近づきたいのよ。だから、やきものということをいっているのだけど、伝統工芸ということを。(註3)

中島が、慣れ親しんだ素材や技法による従来の表現世界に安住することなく、素材を磁器に変え、新たな一歩を踏み出したのは、2002年に招聘されたオランダEKWCにおける滞在制作中のことである。そこで中島は日本では従来、非常識だと思われていた手捻りによる磁器成形に挑戦し始めたのである。

日本では磁器を手捻りで行うということは、磁器という素材の性質との関係から試みられることは陶磁史上ほとんどなかった。これは磁器の性質として成形から乾燥、焼成という過程における素材の変化が大きいことやかたちの変化を素材が記憶する性質を有していることなどに由来するものだが、そのために通常、磁器成形においては轆轤水挽き成形か人の手が直接に素材に触れず人工的な圧力を掛けることがない鋳込み成形が合理的な成形技法として採用される。現在では技術と素材の特性との関係を再解釈していくことで新たな表現の可能性を見出す陶芸家も存在する。しかし長い陶磁器の歴史を顧みると、一般的に磁器は陶器に比べ素材の特性と技法との結びつきが強く、技術的、素材的特性からくる制約から新たな創造的展開へと移行させることが困難な素材だといわれている。それが磁器制作におけるある種の既成概念を生み、手捻りによる成形が発達しなかった理由にもつながるのである。

それに対し、中島は近年、素材を陶器から磁器に変更し、本来は手捻りに向かない磁器土に紙を混ぜるなどして、技術的困難を克服することで磁器を手捻り可能な素材へと変貌させた。同時にその素材で自身のイメージを適切に具現化するために必要となる土を捻る技術そのものも修練によって向上させてきた。中島にとって手捻りで成形するとは、自身と土との関係が最も密接につながる成形技法である。そのために中島は自身の最終的なやきもののイメージと個人の表現である造形とを一体化させる素材として磁器を選択し、手捻り技術の向上に取り組むのである。現在の磁器を反転させる造形が成立するのはその結果であり、それが「やきもののよさから」造形を展開させる現在の自身を「伝統工芸の作家かもしれない」(註4)とみなす理由でもある。ここで重要になるのが、やきものとの関わりを通じて長年蓄積してきた中島の経験であり、その経験をもとに、やきものに対して持つイメージを構造化し自身の造形へと具現化させていく創造の背景とその過程である。

1980年代末から90年代にかけて金子賢治などを中心に陶芸は素材・技術・プロセスによって成立する芸術であるとする工芸的造形論が提示された。日本では1940年代末から50年代にかけてやきものでオブジェが制作されるようになり、それ以降、今日までやきものは社会背景や他の美術領域とのジャンル横断的な交流、あるいは芸術理論を借りながら様々な実験的試みが為されてきた。こうした実験的試みの多くは陶芸における表現領域を拡大し、土を用いた作品を西洋近代的概念でいう美術に近づけるという視点から見れば成功したかに見えるが、その反面で無自覚的拡大は陶芸という特殊で固有のジャンルを解体へと導く危険を有するものであった。ここでは固有のジャンルという言葉を用いたが、ジャンル横断的な動きが盛んな今日の芸術界ではジャンルのようなある種の枠組みは解消の方向に向かっており、一部ではその垣根が消滅してしまったかに見える。しかし、そのような状況であるからこそ土を単なる造形素材の一つに還元してしまうのではなく、土を用い、焼成という行為を通じて表現活動を行うことの意味や陶による必然的造形とは何かをあらためて問い直すことは重要であると思われる。先に言及した金子を中心として提唱された工芸的造形論の重要性とは、表現領域が無自覚的に拡大する危険を有していたやきものにおいて、土から陶に変容するプロセスにやきものによる本質的造形の可能性を見出し、土を唯一の素材として表現活動を行うことに対して一つの指標を確立させたところにある。そしてそこに付け加えていうならば、土という素材を用いて制作されたやきものには、長い歴史を通じて、いかなる表現様式であっても固有の伝統や記憶、社会性、生活感情といった様々な要素が自ずと内包されているといえる。そうした諸要素をやきものとしての構造的一体感のもとで具現化させるためには、素材である土の選択、成形、焼成というやきもの固有の制作過程個々を一度解体し、「やきもの」を構成する諸要素そのものを再検証する必要がある。それと同時に、作家個々のイメージを構造化していく造形思考の変遷が「やきもの」との有機的関連性の中で行われうるかも重要になる。言い換えると、それまでの自己の経験を解放し、新たな経験を積み重ねていくことで、「やきもの」と自己との関係を再構築していくこと、それがやきもので自己を表現するという行為を深化させていくのである。これは中島が現在の反転によって内部空間を解放させる造形を「やきもののよさ」から出発したものであり、「器」であると述べるにいたる理由、つまり中島にとっての「やきもの」へとたどり着く創造的背景にも重なるものである。

かつて中島は、走泥社の影響が色濃く残るマッスとフォルムで構成された卒業制作を始めとして、棘をデザインしていたという1986年の《コスモス色の羽を持つ鳥》、90年代以降の《苦闘する形態》シリーズを手がけてきた。《苦闘する形態》では、土と中島自身とが正面から向き合い、土の生理と格闘することによって、土を素材とし、成型、焼成という過程の中で自己を表現するというやきもの独自の表現の可能性と独自の造形観を確立した。これは土と自己との関係の中で成立するやきもの表現の本質的一面を切り開くものであった。しかし、磁器を自身のやきもののイメージの源泉とした中島にとって、その段階においては技術的、経験的背景などに由来する表現上の「ずれ」を根底に抱え込んだまま制作を行っていたといえる。しかし近年、「やきもの」と自己との関係を再構築していくことで、素材を陶器から磁器に変え、素材感や反転を加えた造形、輪郭線、イングレーズなどを統一させたやきものとしての構造的一体感の中で造形的展開を行うようになる。中島が現在の造形を「器」であると見なすのは、固有の伝統や記憶、社会性、生活感情といった様々な要素を内包させてきたやきものの歴史性と対峙し、その中で「やきもの」が有する空間性や装飾性を自身の造形感覚を通じて再解釈した結果である。

こうしてみると、これまでの中島の制作上の展開とは、「やきもの」で表現するとは何かという問いに対する自らの回答を見つけるための歩みだといえる。言いかえると、素材である土と技術、そして自己との関係を築いてきた従来の経験を解放し、新たな経験を積み重ねながら「やきもの」と自己との関係を再構築することで、独自の造形観に基づく「やきもの」を通じて自己を表現していく過程である。だからこそ、自身のイメージと作品とが一致し始め、「やきもののよさ」から造形を思考するという現地点にたどり着いた中島のこれからが興味深いのである。

(註1)インタビュー記事「やきもの界の人びと 陶芸家 中島晴美」『つくる陶磁郎38』 2007 双葉社

(註2)前掲註1

(註3)前掲註1

(註4)前掲註1

本日のツッコミ(全100件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ Cialis [xdszqpanhjscstkaxwok, http://www.spyderlakewinery.com/ Pro..]

_ Lexapro zoloft [nnpxltykaqsvqbqxuqln, http://www.floordesignsct.com/ Zolof..]

_ locksmith douglasville ga [cotqccyokciuqidfhpvh, http://www.realestatemegasites.com/D..]


2007-07-01 中島晴美展について

7月22日より開催いたします「中島晴美展」のテキストを、愛知県陶磁資料館学芸員の大長智広氏に書いていただきましたので、作品鑑賞の参考にして下さい。

       磁器の造形―中島晴美の現在性―

                大長智広(愛知県陶磁資料館学芸員)

僕の奥さんが、口を塞いでマッスに見せてる昔の作品は好きではなかったって、いま頃いう。棘をつくったりする作品は、興味がなかったというのね。だけど、やきもの本来の姿、つまり器に戻ったから、最近はいいなという。磁器の白さとか、呉須の青とか、やきもののよさから造形に進んでいるから。

僕が作っているものは、器なんです。だからたまたま、飲める飲めないという話になるけど、食器でないとしたら、もっと大きかったりふくらんでいたり、引っ込んでいたりしても構わない。(註1)

これは、『つくる陶磁郎38』誌上で行われた対談から引用した中島晴美の発言であるが、短いながらも中島の造形の現在性を端的に示しているといえる。

磁器特有の色感と素材感を全面に出しながらうねるように反転し、その反転が次の反転を誘発するという連鎖によって全体のかたちが構成されていく。これが中島にとって模索を続けながらたどり着いた造形の現在である。そして中島が磁器を素材として手捻りによる作品制作を始めてから数年が経過した今日、素材の質感や特性と中島の技術、感性とが調和を見せ始め、中島が目指す磁器としての造形がかたちとなって現れてきたように思われる。

そのかたちとは、素材そのものが白い磁器を造形素材としてあらためて選択し直したことにより新たな造形の地平へと展開したものである。今述べたように、磁器は白い素材である。そしてその磁器の白さが中島の作品にみられる反転をやきものとして造形上意味を持つ必然的構造へと導いている。つまり、磁器特有の白という色は、白化粧のようにフォルムの表面を覆う加飾とは異なり、素材そのものの色であるために、やきものの表と裏、内と外で断絶することのない全体的統一感を作り出し、やきもの特有の内部空間を解放する試みである反転を通じて内部と外部の関係を問いかけるのである。そして一枚の皮の様に見える土の輪郭線は、曲面を多用した作品に線的動勢を与えると同時に、歴史的にやきものという立体物が有する特殊な内部空間の存在を規定してきた「口」の役割を内部空間を解放させる中島の造形において象徴的に担うのである。

また、作品全面に施された中島の代名詞とも呼べる青色の水玉は、中島がかつて勤務していた多治見市陶磁器意匠研究所で研究したイングレーズという技法によるものである。これは一見すると染付のように見えるが、実際には染付のように釉下彩ではないことから色感が微妙に異なっている。しかし素材を磁器としたことで、陶土による《苦闘する形態》など従来の作品以上に磁器の装飾技法として数百年間も用いられてきた染付との関連性を想起させ、やきものの歴史性との有機的関係の中で中島の現代性を浮き彫りにする。加えて濃淡や大きさを変えながら裏表無く全面に施された水玉は、鑑賞者の視線を誘導することで反転による造形上の連続性を強調するのである。

ここで述べてきたものはいずれも中島の造形感覚を通じて磁器という素材をあらためて選択し直したことに由来するやきものの表現としての構造的一体感である。その意味で、やきものとしての造形的必然性や中島の造形感覚を構造化、具現化させる試みからいえば、従来よりもやきものに深く根ざした地点でその思考と造形的展開が行われているといえよう。

当然であるが、やきものは土を唯一の造形素材とするものである。それにもかかわらず、通常、やきものの素材について言及する場合、「土」という一言で漠然と済ましてしまうことが多い。とはいえ、実際には「土」の違いによって陶器と磁器とに分けられるだけでなく、地域や粘土層等の違いによってもその組成が異なるように素材としての土は多様である。それは古来やきものの産地として栄えた地域をみても、それぞれの地域で産出する特徴的な土がやきものの性格を決めてきたといえる一面があることからもいえる。

しかしながら、今日、流通が発達したことにより、産地で制作するしないにかかわらず日本中のどこにいても気に入った土地の土が手に入り、またあらかじめ使いやすく調合された無性格な土も溢れている。現在のこの状況は、従来のように土がそこにあるからというだけではなく、陶芸家にとって土はその選択の段階から表現素材として作家の明確な造形思考との関わりを持つものであり、自身の造形思考に沿うかたちであらためて素材としての選択が為されるべき対象であることを逆説的に示している。その意味において、産業的、商業的視座ではなく、近代的意識を有する陶芸家として自身の造形感覚を具現化するという創作的観点からみると、表現活動の根本としていかなる素材を選択し、素材と作家自身とがどのように関わるのかという問題は創作活動の出発点である。同時に素材を陶の造形として成立させるために必要となる様々な技術も大切な要素となる。つまり、土を素材とし、成形、焼成を経て全ての美的要素を引き出すための独自の制作過程を必要とするやきものは、他の芸術分野と比較しても、素材、素材を造形作品へと昇華させるに必要な技術、そしてその中で制作者の自己との密接な関係を通じて成立する特殊な芸術分野なのである。中島が頻繁に口にする言葉に「土と私」、あるいは「土と僕の関係」というものがある。このように土と自身との関係を築くということは、中島にとって土でものを作ることの本質的意味や陶の必然的造形を探る試みを意味している。磁器という素材から導きだされた現在の中島の造形を考慮すると、これまでの試みと展開が必然的過程を経て為されてきたことがわかる。

昔、〈意匠研〉でイングレーズの開発もしてたんですね。それで自分の作品には、イングレーズで黒のドットをやった。しかし、滲み込む感じはやっぱり磁器、染付ですよ。真っ白い磁器のようにしないといけないから、陶胎に白化粧をして、透明釉を掛けて還元で焼いて、呉須をイングレーズですよ。そうすると、カチーンて感じになるかと思ってた。(註2)

これは、かつて陶器で制作していた《苦闘する形態》を指しての発言である。このシリーズは、周知のように中島独自の造形観を確立させ、国際的にも中島の知名度を高めることになった。しかし、それは上記の中島の発言にみられるように「磁器」の質感を借りながら白化粧とイングレーズによる青い水玉模様の装飾を施した作品であり、中島が自作に求めたやきものとしての最終的なイメージとはずれたところに成立するものであったといえる。つまり、中島が近年素材として新たに磁器を選択し直したのは、自身のイメージと「磁器」を借りながら制作された作品との間に存在した従来のずれを修正し、やきものが有する実在感や歴史性の中で自己と素材との関わりを通じてやきものの造形における構造的一体感を求めたからである。中島は先の発言に続き、今後の展開について問われた際に次のように答えている。

磁器になっていく。昔の有田の雰囲気に近づきたいのよ。だから、やきものということをいっているのだけど、伝統工芸ということを。(註3)

中島が、慣れ親しんだ素材や技法による従来の表現世界に安住することなく、素材を磁器に変え、新たな一歩を踏み出したのは、2002年に招聘されたオランダEKWCにおける滞在制作中のことである。そこで中島は日本では従来、非常識だと思われていた手捻りによる磁器成形に挑戦し始めたのである。

日本では磁器を手捻りで行うということは、磁器という素材の性質との関係から試みられることは陶磁史上ほとんどなかった。これは磁器の性質として成形から乾燥、焼成という過程における素材の変化が大きいことやかたちの変化を素材が記憶する性質を有していることなどに由来するものだが、そのために通常、磁器成形においては轆轤水挽き成形か人の手が直接に素材に触れず人工的な圧力を掛けることがない鋳込み成形が合理的な成形技法として採用される。現在では技術と素材の特性との関係を再解釈していくことで新たな表現の可能性を見出す陶芸家も存在する。しかし長い陶磁器の歴史を顧みると、一般的に磁器は陶器に比べ素材の特性と技法との結びつきが強く、技術的、素材的特性からくる制約から新たな創造的展開へと移行させることが困難な素材だといわれている。それが磁器制作におけるある種の既成概念を生み、手捻りによる成形が発達しなかった理由にもつながるのである。

それに対し、中島は近年、素材を陶器から磁器に変更し、本来は手捻りに向かない磁器土に紙を混ぜるなどして、技術的困難を克服することで磁器を手捻り可能な素材へと変貌させた。同時にその素材で自身のイメージを適切に具現化するために必要となる土を捻る技術そのものも修練によって向上させてきた。中島にとって手捻りで成形するとは、自身と土との関係が最も密接につながる成形技法である。そのために中島は自身の最終的なやきもののイメージと個人の表現である造形とを一体化させる素材として磁器を選択し、手捻り技術の向上に取り組むのである。現在の磁器を反転させる造形が成立するのはその結果であり、それが「やきもののよさから」造形を展開させる現在の自身を「伝統工芸の作家かもしれない」(註4)とみなす理由でもある。ここで重要になるのが、やきものとの関わりを通じて長年蓄積してきた中島の経験であり、その経験をもとに、やきものに対して持つイメージを構造化し自身の造形へと具現化させていく創造の背景とその過程である。

1980年代末から90年代にかけて金子賢治などを中心に陶芸は素材・技術・プロセスによって成立する芸術であるとする工芸的造形論が提示された。日本では1940年代末から50年代にかけてやきものでオブジェが制作されるようになり、それ以降、今日までやきものは社会背景や他の美術領域とのジャンル横断的な交流、あるいは芸術理論を借りながら様々な実験的試みが為されてきた。こうした実験的試みの多くは陶芸における表現領域を拡大し、土を用いた作品を西洋近代的概念でいう美術に近づけるという視点から見れば成功したかに見えるが、その反面で無自覚的拡大は陶芸という特殊で固有のジャンルを解体へと導く危険を有するものであった。ここでは固有のジャンルという言葉を用いたが、ジャンル横断的な動きが盛んな今日の芸術界ではジャンルのようなある種の枠組みは解消の方向に向かっており、一部ではその垣根が消滅してしまったかに見える。しかし、そのような状況であるからこそ土を単なる造形素材の一つに還元してしまうのではなく、土を用い、焼成という行為を通じて表現活動を行うことの意味や陶による必然的造形とは何かをあらためて問い直すことは重要であると思われる。先に言及した金子を中心として提唱された工芸的造形論の重要性とは、表現領域が無自覚的に拡大する危険を有していたやきものにおいて、土から陶に変容するプロセスにやきものによる本質的造形の可能性を見出し、土を唯一の素材として表現活動を行うことに対して一つの指標を確立させたところにある。そしてそこに付け加えていうならば、土という素材を用いて制作されたやきものには、長い歴史を通じて、いかなる表現様式であっても固有の伝統や記憶、社会性、生活感情といった様々な要素が自ずと内包されているといえる。そうした諸要素をやきものとしての構造的一体感のもとで具現化させるためには、素材である土の選択、成形、焼成というやきもの固有の制作過程個々を一度解体し、「やきもの」を構成する諸要素そのものを再検証する必要がある。それと同時に、作家個々のイメージを構造化していく造形思考の変遷が「やきもの」との有機的関連性の中で行われうるかも重要になる。言い換えると、それまでの自己の経験を解放し、新たな経験を積み重ねていくことで、「やきもの」と自己との関係を再構築していくこと、それがやきもので自己を表現するという行為を深化させていくのである。これは中島が現在の反転によって内部空間を解放させる造形を「やきもののよさ」から出発したものであり、「器」であると述べるにいたる理由、つまり中島にとっての「やきもの」へとたどり着く創造的背景にも重なるものである。

かつて中島は、走泥社の影響が色濃く残るマッスとフォルムで構成された卒業制作を始めとして、棘をデザインしていたという1986年の《コスモス色の羽を持つ鳥》、90年代以降の《苦闘する形態》シリーズを手がけてきた。《苦闘する形態》では、土と中島自身とが正面から向き合い、土の生理と格闘することによって、土を素材とし、成型、焼成という過程の中で自己を表現するというやきもの独自の表現の可能性と独自の造形観を確立した。これは土と自己との関係の中で成立するやきもの表現の本質的一面を切り開くものであった。しかし、磁器を自身のやきもののイメージの源泉とした中島にとって、その段階においては技術的、経験的背景などに由来する表現上の「ずれ」を根底に抱え込んだまま制作を行っていたといえる。しかし近年、「やきもの」と自己との関係を再構築していくことで、素材を陶器から磁器に変え、素材感や反転を加えた造形、輪郭線、イングレーズなどを統一させたやきものとしての構造的一体感の中で造形的展開を行うようになる。中島が現在の造形を「器」であると見なすのは、固有の伝統や記憶、社会性、生活感情といった様々な要素を内包させてきたやきものの歴史性と対峙し、その中で「やきもの」が有する空間性や装飾性を自身の造形感覚を通じて再解釈した結果である。

こうしてみると、これまでの中島の制作上の展開とは、「やきもの」で表現するとは何かという問いに対する自らの回答を見つけるための歩みだといえる。言いかえると、素材である土と技術、そして自己との関係を築いてきた従来の経験を解放し、新たな経験を積み重ねながら「やきもの」と自己との関係を再構築することで、独自の造形観に基づく「やきもの」を通じて自己を表現していく過程である。だからこそ、自身のイメージと作品とが一致し始め、「やきもののよさ」から造形を思考するという現地点にたどり着いた中島のこれからが興味深いのである。

(註1)インタビュー記事「やきもの界の人びと 陶芸家 中島晴美」『つくる陶磁郎38』 2007 双葉社

(註2)前掲註1

(註3)前掲註1

(註4)前掲註1

本日のツッコミ(全99件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ Kjrwxskj [The common problems with this material are the presence of..]

_ Mqipqnnm [Many of the lowly organisms have adapted and have claimed ..]

_ Tclhfzpw [Derry had gained previous paint software expertise at Time..]


2007-06-13 板橋廣美展について

6月17日(日)より、板橋廣美展を開催いたします。作品鑑賞のテキストをつくば美術館の主任学芸員の外舘和子氏に書いていただきましたので、参考にして下さい。

板橋廣美の磁器表現−間接的手わざによる白きイメージの連鎖

            外舘和子(茨城県つくば美術館主任学芸員)

1 はじめに−非産地型“集団活性”の現場から

板橋廣美は1948年三鷹生まれ、現在も三鷹で制作する東京の作家である。

作家の工房の一角には、 既に10年以上作家が運営してきたウインズ陶芸研究所が併設されている。 月に一度研究会のような授業もあるが、 いわゆる陶芸教室というよりも、 日展や女流陶芸や朝日陶芸展、朝日現代クラフト展など、日本全国のさまざまな団体展や公募展で活躍する幅広い年代層の作家たちが集まり、それぞれ個別の仕事をしている。いわば作家たちの「制作現場」そのものである。

究極的には孤独であるに違いない個人作家の制作という行為に、“集団活性”とでもいうべき相乗効果があり得るのは、陶芸制作に顕著な特徴といってよい。

かつて板橋が学んだやきものの産地、多治見にもそうした“集団活性”の状況が近年ますます著しいが(註1)、東京に戻って活動する板橋の身辺では、東京という非産地における“集団活性”の在り方が形成されてきている。

例えば、ごく最近では、ある研究生が、片栗粉を使って抜け勾配ではないかたちを取り出すことのできる型を作れることを発見。そうした新たな技法の発見から、いかに自分の表現にもっていくことができるかということの重要性を板橋は指摘している。

素材や技術を介して産業と芸術、窯業史と芸術史が地続きの陶芸の世界ならではの“集団活性”は、産地のみならず、非産地でも個人作家たちの間に形成され得るのである。

2007年5月24日、この活気ある板橋廣美の工房を尋ね取材した。2001年の「現代陶芸の精鋭−21世紀を開くやきものの手法とかたち」展、2006年の「日本陶芸100年の精華」展(いずれも茨城県陶芸美術館)などの作品集荷・返却の立ち会いや、取材で、少なくとも既に5回程度はこの作家を訪問しているが、いつ訪ねても、現在制作中の作品や試作を間近に見ることができる。ウインズ陶芸研究所の集団活性の核となる存在はやはり主宰者の板橋廣美自身なのである。

2 生い立ち−茶陶との出会い 

現代陶芸を代表する作家としての板橋の作品展開に照らせば驚くべきことだが、板橋の陶芸の出発点はいわゆる茶陶である。1歳半で父親が他界してから、茶を嗜み、日本画を描く多彩な趣味人であった祖父の影響もあり、中学校の修学旅行で赤楽茶碗を当時茶道を学び始めた姉への土産に買った。修学旅行の小遣いが1000円であるという事情を知った店の主人は、3000円のその茶碗を1000円で譲ってくれたという。中学生のこの渋い趣味は、ことのほか家人の受けも良く、以後板橋は大学は法学部に進みながら、新橋の陶芸教室に通い藤田徹也という講師に学び、工芸を扱う店を見て歩き、やきものの本を読み漁った。学園紛争の激しかった2年間は特にやきものに費やす時間を確保できたようだ。

陶芸を始めて間もなく茶碗を100個作った。焼成に1個1000円取られる。100個で十万。それならばと、当時11万円程度の価格だったガス窯を買った。

「陶芸家になろうなどと思った訳じゃないんです。ただもう面白くて」と作家は当時を振り返る。

たまたま眼にしたやきものの本に、「茶人は懐石料理ができるべき」とあれば、即座に魚屋に入り、魚のおろし方を覚えた。その3年半ほどの間も、ずっとやきものを作り続けていたという。

3 クラフトデザインの隆盛と多治見市陶磁器意匠研究所

「やきもの=茶碗」であるかのような通念の中で制作していた板橋の陶芸観が変わるきっかけは、作家がしばしば訪れた「生活の木」という店で、伊藤慶二(1935− )の作品と出会ったことである。

板橋がやきものに夢中になり始めた1970年代の日本陶芸界は、いわゆる前衛の第二世代が活躍する一方、実用陶磁器の領域では、いわばクラフトデザイン全盛といっていい活況を示していた。1956年に設立された日本デザイナークラフトマン協会は、1960年、日本ニュークラフト展の名で第1回展を開催。1976年に日本クラフトデザイン協会と改称、社団法人化し、日本クラフト展を現在も開催している。伊藤慶二は、そうした日本のクラフトデザインの動向における中心的役割を担った一人である。

伊藤が多治見市陶磁器意匠研究所(以下、意匠研)で講師をしていることを本で知った板橋は、1975年に同所に入所している。当時、意匠研はクラフト棟、インテリア棟などと建物が別れ、クラフト棟には日根野作三によるクラフトの定義が手書きされ貼られていたという。いわく「手工を主とし近代感覚をもった現代の生活用具」であり、正確にはクラフトデザイン(C.D.)、つまり、インダストリアルデザインと対置される「小規模といえどもI.D.と同様産業基盤の上に立つもの」であった(註2)。

1970年代はまた、陶磁デザイン系の公募展も盛んであり、板橋も70年代半ばに日本陶磁器デザインコンペティションなどで受賞を重ねている。

地場産業の育成を担う意匠研が陶磁器デザインに力を入れていたのは当然のことだが、一方で同所には、板橋が惹かれた伊藤をはじめ、熊倉順吉ら造形力、創造力に秀れた作家たちが講師を務めていた。板橋が入所して1年半程のち、中島晴美も同所の講師となっている。

陶芸論、造形論を繰り返す一方、陶磁器デザインの基本である石膏型成形を板橋は着実に身につけた。意匠研の授業だけではない。「地元の型屋さんの仕事を一日外から眺めてるだけでも、ものすごく勉強になる」。板橋は表現としての陶芸を議論するかたわら、多治見という産地ならではの陶磁器の技術、製品として通用するレベルをクリアできる「完成度」を獲得していった。多治見の“産地力”は、陶芸作家、表現者としての板橋の確かな血肉となっている。

4 展開する《白の連想》と間接的手わざ

従来、主に産地の量産技術であった鋳込み成形、型成形の技法が、芸術表現の手法として登場するのは、1970年代の終わり頃のことであるが、板橋はその嚆矢の一人である。

鋳込みによる“型の発想”は、板橋の初期を代表する風船を用いた膨らみのあるかたちをはじめ、次々に連鎖的展開を示してきた。ある作品の制作において、素材と技術の関係の中にかたちやイメージを発見するというだけでなく、一つの技術が次の技術を生み、一つのかたちが次のかたちを生むのである。陶芸制作に継続が欠かせないのは、技術レベルの向上だけでなく、イメージの展開、発見を相乗的に促すからである。

黒陶やシャモット、今回の目黒陶芸館の作品中にもみられる鉄などの異素材との組み合わせも、いわば白い磁器という素材や、技法の実験的探求が、直接、間接に招いたものであるといってよい。

兵庫陶芸美術館での展示、NIKIリゾートでの野外展示に続き、今回目黒陶芸館個展のメイン作品となる《白の連想》(NIKIリゾートでは《森の精霊たち》)も、白い磁土という素材と、鋳込みの型成形の技法を存分に生かした表現世界である。

剥き出しの手跡を残さない、型ならではの無機質なフォルムと質感。手捻りや削りでは生みだしえない、一種オートマテイックな形態感は鋳込みの型成形ならではのものである。その無機的な膨らみのあるかたちを二つずつ抱き合うように組み合わせることで、それは生きもののような有機性を獲得している。しかもそれが反復、量産され群生することで、無限の時空間を思わせる豊饒を示しているのである。

また、今回の新作となる薄い膨らみのある長方形のフォルムは、中央が焼成により僅かにへたることで、やはり、無機的なものから有機的なものへの転位がみられる。いわばその転位の狭間をフォルムにとどめた作品といってもよい。それらは壁にかければ、壁を介して空間に揺らぎをもたらし、あるいは床や卓上に置かれれば、花生けやうつわにもなり得るものだ。用途を度外視して生まれるかたちから、用途を触発するかたちへの間を、板橋の作品は自由自在に行き来する。

そうした板橋の作品がもつイメージの余白もまた、白い磁土という無垢な素材と、鋳込み成形という手わざの間接性に負っている。それは、クラフトデザインや量産陶磁器の現場で学んだ作家こそが切り拓くことのできた表現であると同時に、脱クラフトデザインとでもいうべき、この作家ならではの“新生モダン”の世界として構築されている。換言すれば、東京で制作し、生活する作家らしい、秀れて都会的な世界である。その白いフォルムは、常に次の展開に向けて準備されてもいる。板橋廣美の作品世界に、いわば陶芸の“普遍的流動性”をみるのである。

註1:外舘「“産地力”の形成と活用」『新美術新聞』2007年6月1日。

註2:日根野作三『20cy後半の日本陶磁器クラフトデザインの記録』1969年、4頁



本日のツッコミ(全100件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ Google [zcywpyoxqqcyxjxytpzm, 誰損多http://www.google.com/ Google, dT..]

_ Google [wokjjzquofmvtmjhgxey, 誰損多http://www.google.com/ Google, ko..]

_ Google [yfpwrvbdgzxplqlxfoxr, 誰損多http://www.google.com/ Google, ir..]


2007-05-23

山野千里さんの作品鑑賞のテキストを外舘和子氏に書いていただきましたので、作品鑑賞の参考にしてください。

「二次元の世界を、陶器を通して三次元の表現にいとも簡単にしてしまった山野千里の物語世界」−陶のかたちによる想像力の解放ー

             外舘和子(茨城県つくば美術館主任学芸員)

1 21世紀デビューの陶芸家

川端健太郎、留守玲など、個性的な若手を積極的に取り上げる目黒陶芸館で、今回もまた21世紀に作品発表を始めた1977年生まれの作家である。山野千里という、いかにも御伽噺を紡ぎ出しそうな美しい名を持つ作家は、大阪生まれ、京都在住の女性陶芸家だ。母はキルトを教え、カバンを作り、妹は彫刻に取り組んでいるという。ものづくりを好む資質は山野千里も共有しているのだろう。

2007年3月4日、京都市右京区にある山野の工房を訪ねた。以前、夫である陶芸家、藤田匠平を取材しているので、筆者にとっては2度目の訪問である。

1997年、京都市立芸術大学に油画で入学した山野は、「陶器の方が拡がるような気がして」陶磁器に転向、秋山陽、川口淳、栗木達介、重松あゆみ、長谷川直人ら錚々たる作家たちに学んでいる。大学院では、なかでも川口淳に師事した。

作家にとって、現在の陶芸制作は、少女時代から絵画教室に通い、粘土細工を楽しんだ「遊びの延長」にあるのだという。「土をごちょごちょ触っていることが面白くてたまらない」という山野は、学生時代からグループ展や個展で精力的に作品を発表してきた。

主な発表歴を振り返ると、

2002年 京都市立芸術大学制作展【楽毛(たのしげ)】

2003年 京都市立芸術大学制作展【だんらん】

2004年 卒業制作展

2005年 個展【セラミック・フィギュア】INAXガレリア・セラミ       カ

2006年 個展【セラミック・フィギュア−空想劇場】世界のタイル博       物館

      個展【フレンズ】黒田陶苑

 個展【小さなやきもの】ギャラリー介

2007年 個展【パレード】Gallery Jin

となる。これらの発表時の作品テーマや個展のタイトルを一覧するだけでも、山野のやきものの特徴をかいま見ることができよう。陶のフィギュアであること、多くが手のひらサイズの小さいやきものであることなど、表題の一つ一つが、山野千里の作品世界がもつ要素を語っている。

しかし、一見ほのぼのとした、ともすれば他愛もない出来事にさえ見える山野の作品に、陶芸史、近現代美術史にかかわる豊かな世界が交錯していることに気づかねばならい。実物を真近で見たものだけが楽しむことのできる、そのえもいわれぬ魅力の源泉はどこにあるのだろうか。

2 手の先で紡ぎ出す−多重イメージの発見

古代の埴輪や土偶から、江戸時代に最盛期を迎えるいわゆる「細工もの」まで、日本のやきものにおける土の形象の歴史は古い。しかし、山野千里の細工的世界は、呪術目的や信仰にかかわるのでもなければ、既存の絵画イメージなどに拠るのでもない、この作家独自の極めて今日的な造形表現である。

その端緒ともいうべき方向は、3回生の時に制作した【楽毛(たのしげ)】のシリーズに既にみることができる。最大の特徴は、造形の多重イメージである。

【楽毛】シリーズの4点で、山野は京都市立芸術大学制作展富本賞を受賞した。人物の頭部の髪がからみあいつつ森を形成し、鳥や馬が遊ぶ。かとおもえば、毛髪は水中の藻のようなイメージへと変貌し、藻の間を魚が泳ぐ。頭髪の森へ想像を巡らし、物語の世界に遊ぶ人物の姿は、作者自身とも重ね合わされている。

この【楽毛】のシリーズは、高さ約40〜50センチと、現在のほぼ手のひらサイズの山野作品に比べると大きなものである。【楽毛】のようなサイズのものを制作する際、山野はまず手のひら大のマケットを作ることから制作を始めていた。

この「マケットを作る方が面白くて」、作品は次第に「小さく」なっていく。素早くかたちができあがっていくことの面白さ。手の動きが作家の想像力を引き出すままに、たちまち現実のかたちとして立ち現れれていく醍醐味。そこには、20世紀美術史上の核の一つであるオートマティズム、さらにいえばそのベースにある心理学上の「自動記述」の原理が働いている。その意味で山野千里もまた陶芸のシュルレアリストである。

しかし、20世紀美術の展開を象徴するシュルレアリスムの一つの方向が、既存の事物のピックアップと組み合わせによって本来個々の事物にはない新たなイメージの「発見」を求めたのに対し、陶芸家である山野は、土という実材を自ら扱うことにより、自身の手の先で刻々と変化していく土の姿にオリジナルなかたちを「発見」することとなった。

つまり、制作過程におけるイメージの創出において、前者が受動的、固定的な発見であるとすれば、山野の場合は能動的、流動的な発見なのである。眼と手の共同作業による“創造的発見”といってもよいだろう。

3 「見立て」を越えて−能動的見立て

山野が近年の“創造的発見”に至る過程で、山野の初期作品の中には、それと似て非なる芸術上の手法もかいまみられる。

例えば、学生時代の山野の作品【だんらん】(2003年)。アザラシの群れとオットセイの群れが対角線上にそれぞれの集団を形成し砂の上にくつろいでいる。この作品では、イメージの発見は上記のような陶芸的、能動的なものとは別の、日本人が得意としてきた「見立て」という芸術の手法にも関係している。すなわち、砂礫を用いて水を表現するいわゆる枯山水の発想である。

江戸時代に発達した「見立て」の発想は、造形(作庭)手法のうえではそれに先立つ平安時代の「枯山水(こせんすい)」や室町時代の「枯山水(かれさんすい)」に象徴されるが、さらに原初的な「見立て」は、日常の中にも随所にある。 

例えば、多くの子どもたちがするように、山野もまた少女時代に「テレビを山に見立てて人形を登らせて遊ぶ」ことを楽しんでいる。これは誰もが体験する原初的「見立て」の世界である。

しかし、仮にこのとき山野がテレビ自体を土で造形し始めるならば、それは山野の独創による山の表現になりえ、あるいはさらに別の何かへ、手の先で自由に“変容”させていくことができる。陶芸家となった山野の制作は、原初的「見立て」とは別次元で展開しているのである。

「見立て」という日本人が得意とする芸術の手法に、強いてなぞらえるならば、今日の山野が探求する世界においては、完成されたものの結論としての「見立て」や、規制のルールの範疇におけるそれではなく、いわば次の何かを引き出す“一過性の見立て”である。それは、手の先で連続的に展開している。換言すれば、実材を扱う陶芸家ならではのライブ感覚に満ちた“能動的見立て”のうちに作品が生まれるといってよいだろう。つまり、単なる「見立て」ではなく、土の変容に伴い引き出されるイメージの発見なのである。

4 飛躍するイメージ−スケールの転換

2005年ガレリアセラミカでの個展、及び翌年の世界のタイル博物館個展、黒田陶苑個展と、山野の想像の劇場はその多彩さを一気に開花させてきた。

山野作品の魅力の一つは、その重複するイメージの“意外性”である。

犬の耳が男性の服の襟を兼ねて連続する《犬人犬人》(2006年)、亀の甲羅が女性のスカートを兼ねる《亀甲スカート》(2006年)などはその典型であろう。

さらにまた、もう一つの魅力は“スケールの転換”である。

例えば「ヘラジカの角を作っていたら波に見えてきたので、サーファーをその中に」配したというように、次元の転移だけでなく、スケールの飛躍的転換が同時に生じていく。場面としての次元のみならず、そのスケールまでも、いとも軽やかに鮮やかに転換できるのは、その小さな作品サイズのためである。

小さな世界であるがゆえに、大きな自由を獲得したといってもよい。山野自身の想像力の解放は、土という素材と、その物理的小サイズに多くを負っている。

80年代以降今日まで、一方には大型作品、あるレベル以上の量の土に挑む作家たちの表現が展開してきているが、特に20世紀の終わりから今日、逆にサイズを求めないことで自己の想像力を大胆に解放する作家が現れてきている。山野はその象徴的な存在であるといってもいいだろう。

5 山野千里のグローバル・ヒューマニズム

小さな世界の大きな自由を獲得した山野作品のダブルイメージ、トリプルイメージは、当初、蓋の上に人が乗るようなうつわと生き物を組み合わせるタイプのものなど、二つ以上の何かが、縦あるいは横並びに“つながる”という“連続性”であったが、ほどなくその“連続性”とともに、より合体の度合いの高い“一体性”も強く示すようになってきている。

このイメージの連続性、一体性は山野が制作手法の上で、自然と獲得した造形性であるが、それはまた、山野作品の物語りにおける登場人物たちへの限りない愛着であり、現代の生きとし生けるものたちへの、グローバルな関心を示してもいる。

国籍も時代も男も女も動物も物も、そこではすべてが対等である。

作品タイトルにもみられるユーモアや風刺を含め、世の中に対する作者の世界観はあくまで肯定的だ。陶のプロセスを介して作者が創り上げる小さないきものたちが示すグローバリズムは、既成概念やしがらみや世間のあらゆる縛りを解き放とうとする。それはまた作者が陶芸制作においてこそ知り得た、自己の内側から生じる想像力の解放でもあろう。



山野千里さんの作品鑑賞のテキストを外舘和子氏に書いていただきましたので、作品鑑賞の参考にしてください。

「二次元の世界を、陶器を通して三次元の表現にいとも簡単にしてしまった山野千里の物語世界」−陶のかたちによる想像力の解放ー

             外舘和子(茨城県つくば美術館主任学芸員)

1 21世紀デビューの陶芸家

川端健太郎、留守玲など、個性的な若手を積極的に取り上げる目黒陶芸館で、今回もまた21世紀に作品発表を始めた1977年生まれの作家である。山野千里という、いかにも御伽噺を紡ぎ出しそうな美しい名を持つ作家は、大阪生まれ、京都在住の女性陶芸家だ。母はキルトを教え、カバンを作り、妹は彫刻に取り組んでいるという。ものづくりを好む資質は山野千里も共有しているのだろう。

2007年3月4日、京都市右京区にある山野の工房を訪ねた。以前、夫である陶芸家、藤田匠平を取材しているので、筆者にとっては2度目の訪問である。

1997年、京都市立芸術大学に油画で入学した山野は、「陶器の方が拡がるような気がして」陶磁器に転向、秋山陽、川口淳、栗木達介、重松あゆみ、長谷川直人ら錚々たる作家たちに学んでいる。大学院では、なかでも川口淳に師事した。

作家にとって、現在の陶芸制作は、少女時代から絵画教室に通い、粘土細工を楽しんだ「遊びの延長」にあるのだという。「土をごちょごちょ触っていることが面白くてたまらない」という山野は、学生時代からグループ展や個展で精力的に作品を発表してきた。

主な発表歴を振り返ると、

2002年 京都市立芸術大学制作展【楽毛(たのしげ)】

2003年 京都市立芸術大学制作展【だんらん】

2004年 卒業制作展

2005年 個展【セラミック・フィギュア】INAXガレリア・セラミ       カ

2006年 個展【セラミック・フィギュア−空想劇場】世界のタイル博       物館

      個展【フレンズ】黒田陶苑

 個展【小さなやきもの】ギャラリー介

2007年 個展【パレード】Gallery Jin

となる。これらの発表時の作品テーマや個展のタイトルを一覧するだけでも、山野のやきものの特徴をかいま見ることができよう。陶のフィギュアであること、多くが手のひらサイズの小さいやきものであることなど、表題の一つ一つが、山野千里の作品世界がもつ要素を語っている。

しかし、一見ほのぼのとした、ともすれば他愛もない出来事にさえ見える山野の作品に、陶芸史、近現代美術史にかかわる豊かな世界が交錯していることに気づかねばならい。実物を真近で見たものだけが楽しむことのできる、そのえもいわれぬ魅力の源泉はどこにあるのだろうか。

2 手の先で紡ぎ出す−多重イメージの発見

古代の埴輪や土偶から、江戸時代に最盛期を迎えるいわゆる「細工もの」まで、日本のやきものにおける土の形象の歴史は古い。しかし、山野千里の細工的世界は、呪術目的や信仰にかかわるのでもなければ、既存の絵画イメージなどに拠るのでもない、この作家独自の極めて今日的な造形表現である。

その端緒ともいうべき方向は、3回生の時に制作した【楽毛(たのしげ)】のシリーズに既にみることができる。最大の特徴は、造形の多重イメージである。

【楽毛】シリーズの4点で、山野は京都市立芸術大学制作展富本賞を受賞した。人物の頭部の髪がからみあいつつ森を形成し、鳥や馬が遊ぶ。かとおもえば、毛髪は水中の藻のようなイメージへと変貌し、藻の間を魚が泳ぐ。頭髪の森へ想像を巡らし、物語の世界に遊ぶ人物の姿は、作者自身とも重ね合わされている。

この【楽毛】のシリーズは、高さ約40〜50センチと、現在のほぼ手のひらサイズの山野作品に比べると大きなものである。【楽毛】のようなサイズのものを制作する際、山野はまず手のひら大のマケットを作ることから制作を始めていた。

この「マケットを作る方が面白くて」、作品は次第に「小さく」なっていく。素早くかたちができあがっていくことの面白さ。手の動きが作家の想像力を引き出すままに、たちまち現実のかたちとして立ち現れれていく醍醐味。そこには、20世紀美術史上の核の一つであるオートマティズム、さらにいえばそのベースにある心理学上の「自動記述」の原理が働いている。その意味で山野千里もまた陶芸のシュルレアリストである。

しかし、20世紀美術の展開を象徴するシュルレアリスムの一つの方向が、既存の事物のピックアップと組み合わせによって本来個々の事物にはない新たなイメージの「発見」を求めたのに対し、陶芸家である山野は、土という実材を自ら扱うことにより、自身の手の先で刻々と変化していく土の姿にオリジナルなかたちを「発見」することとなった。

つまり、制作過程におけるイメージの創出において、前者が受動的、固定的な発見であるとすれば、山野の場合は能動的、流動的な発見なのである。眼と手の共同作業による“創造的発見”といってもよいだろう。

3 「見立て」を越えて−能動的見立て

山野が近年の“創造的発見”に至る過程で、山野の初期作品の中には、それと似て非なる芸術上の手法もかいまみられる。

例えば、学生時代の山野の作品【だんらん】(2003年)。アザラシの群れとオットセイの群れが対角線上にそれぞれの集団を形成し砂の上にくつろいでいる。この作品では、イメージの発見は上記のような陶芸的、能動的なものとは別の、日本人が得意としてきた「見立て」という芸術の手法にも関係している。すなわち、砂礫を用いて水を表現するいわゆる枯山水の発想である。

江戸時代に発達した「見立て」の発想は、造形(作庭)手法のうえではそれに先立つ平安時代の「枯山水(こせんすい)」や室町時代の「枯山水(かれさんすい)」に象徴されるが、さらに原初的な「見立て」は、日常の中にも随所にある。 

例えば、多くの子どもたちがするように、山野もまた少女時代に「テレビを山に見立てて人形を登らせて遊ぶ」ことを楽しんでいる。これは誰もが体験する原初的「見立て」の世界である。

しかし、仮にこのとき山野がテレビ自体を土で造形し始めるならば、それは山野の独創による山の表現になりえ、あるいはさらに別の何かへ、手の先で自由に“変容”させていくことができる。陶芸家となった山野の制作は、原初的「見立て」とは別次元で展開しているのである。

「見立て」という日本人が得意とする芸術の手法に、強いてなぞらえるならば、今日の山野が探求する世界においては、完成されたものの結論としての「見立て」や、規制のルールの範疇におけるそれではなく、いわば次の何かを引き出す“一過性の見立て”である。それは、手の先で連続的に展開している。換言すれば、実材を扱う陶芸家ならではのライブ感覚に満ちた“能動的見立て”のうちに作品が生まれるといってよいだろう。つまり、単なる「見立て」ではなく、土の変容に伴い引き出されるイメージの発見なのである。

4 飛躍するイメージ−スケールの転換

2005年ガレリアセラミカでの個展、及び翌年の世界のタイル博物館個展、黒田陶苑個展と、山野の想像の劇場はその多彩さを一気に開花させてきた。

山野作品の魅力の一つは、その重複するイメージの“意外性”である。

犬の耳が男性の服の襟を兼ねて連続する《犬人犬人》(2006年)、亀の甲羅が女性のスカートを兼ねる《亀甲スカート》(2006年)などはその典型であろう。

さらにまた、もう一つの魅力は“スケールの転換”である。

例えば「ヘラジカの角を作っていたら波に見えてきたので、サーファーをその中に」配したというように、次元の転移だけでなく、スケールの飛躍的転換が同時に生じていく。場面としての次元のみならず、そのスケールまでも、いとも軽やかに鮮やかに転換できるのは、その小さな作品サイズのためである。

小さな世界であるがゆえに、大きな自由を獲得したといってもよい。山野自身の想像力の解放は、土という素材と、その物理的小サイズに多くを負っている。

80年代以降今日まで、一方には大型作品、あるレベル以上の量の土に挑む作家たちの表現が展開してきているが、特に20世紀の終わりから今日、逆にサイズを求めないことで自己の想像力を大胆に解放する作家が現れてきている。山野はその象徴的な存在であるといってもいいだろう。

5 山野千里のグローバル・ヒューマニズム

小さな世界の大きな自由を獲得した山野作品のダブルイメージ、トリプルイメージは、当初、蓋の上に人が乗るようなうつわと生き物を組み合わせるタイプのものなど、二つ以上の何かが、縦あるいは横並びに“つながる”という“連続性”であったが、ほどなくその“連続性”とともに、より合体の度合いの高い“一体性”も強く示すようになってきている。

このイメージの連続性、一体性は山野が制作手法の上で、自然と獲得した造形性であるが、それはまた、山野作品の物語りにおける登場人物たちへの限りない愛着であり、現代の生きとし生けるものたちへの、グローバルな関心を示してもいる。

国籍も時代も男も女も動物も物も、そこではすべてが対等である。

作品タイトルにもみられるユーモアや風刺を含め、世の中に対する作者の世界観はあくまで肯定的だ。陶のプロセスを介して作者が創り上げる小さないきものたちが示すグローバリズムは、既成概念やしがらみや世間のあらゆる縛りを解き放とうとする。それはまた作者が陶芸制作においてこそ知り得た、自己の内側から生じる想像力の解放でもあろう。



本日のツッコミ(全99件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ Slelvesmoossy [lego online games <a href="http://www.testriffic.com/user..]

_ enagreevy [free ware game download poker <a href="http://www.council..]

_ enagreevy [new mexico lotto <a href="http://www.councilofdads.com/pr..]


2006-11-29 留守 玲展について

現在開催中の「留守 玲展」をより理解していただくために、外舘和子氏にテキストを書いていただきましたので作品鑑賞の参考にしてください。

構造としてのかたち−留守玲の「鉄を紡ぐ」造形ー

          外舘和子(茨城県つくば美術館主任学芸員)

1 制作の現場で

留守玲(るす・あき)はこの3月、夫となった鍛金作家市岡真治とともに、小田原に工房を築いたばかりである。2006年10月16日、二宮駅で作家と待ち合わせ、その新しい工房を訪ねた(註1)。

県道に面した自宅兼工房は、もともと鉄工所として使われていたという。車の往来が激しいため、心置きなく「音」を出すことができる。近づいていくと車の騒音に混じって、市岡が銅を叩く音がした。

工房の中に入ると、周囲にはプラズマ切断機、アセチレンと酸素のボンベを伴うガス熔接の吹管、金属に穴を空ける機械、叩く際に使用する当て金や、金づち、ヤットコなど、ハードな機械や道具が並ぶ。 さながら小さな工場のようである。

筆者は90年代の半ば、当時、主に鉄を扱っていた彫刻家・土谷武(1926-2004)の制作を取材するため、日本大学芸術学部を訪れたことがあり、その折、大学の一角に「教室」という名の「工場」があることを知ったが、留守の工房は、まさにそれを思い出させるものである。

こうした自分の作業場を持つことができるかどうかも、若き金属造形作家が「作家」を継続できるかどうかの最初の関門であろう。陶芸の窯や機織りの機械を持つこともたやすくはないが、アーティストの制作現場としては、それらに比べても、ハードな素材に相関するワイルドな環境である。それを獲得したという意味で、留守は、作家としての歩みにおける最初の難関を既に突破したことになる。

その制作現場で、個展に向けて成長を遂げつつある巨大な作品と対峙した。黒々と光る生々しい銀色の肌が複雑なテクスチャーを持つそれは、作者である留守の身体よりも遥かに大きい。奇っ怪ともいえる不気味な姿をした作品は、作者の言葉を借りれば「迫り来て気が付くと恐ろしい強さをもってそこにあるもの」(註2)だ。

その「恐ろしい」までの「強さ」とは、一体どこから来るのか。得たいの知れぬ強靭さの正体とは何であろうか。

2 鉄と出会う−自分のテクスチャーを求めて

1976年、留守は仙台市に生まれた。父親は施工や設計の会社を営んでいた。家に小林秀雄の書物やテープがあり、後にそれらを読んでみたりすることになるのだが、むしろ子供のころから絵画教室に通い、高校1年のときからは美大の予備校に通う、いわゆる美術好きの少女であった。

1996年、留守は多摩美術大学美術学部デザイン科に入学。立体デザインを専攻し、ここで初めて金属に触る。当時、 同大には工芸学科という組織立てはされておらず、立体デザイン専攻のクラフトデザインでガラスか金属のいずれかを選ぶことができた。

ガラスは制作過程がみえない段階があるという理由で金属を専攻。ただし、金属を選択した学生もガラスの授業の一部を履修する機会があり、留守はキャスト(鋳込み)を経験している。キャストは、鍛金よりは素材との距離を、より感じる技法であった。

金属については、「ちょっとやったら、(作品が)ちょっと動く。それをいつも見ていられることが安心だった」と作家はいう。つまり、当初から、あくまでも素材と接近した状況を望んだのである。

多摩美術大学では、金属の指導教官である鍛金作家・野口裕史(1950− )から、銅という素材の性質を学んだ。「こうすると、こう反応する」」−そうした素材の性質を捉えて作業を展開することに強い興味を覚える一方、「銅の質感がどうしても視覚的に好きになれなかった」。

2001年、自分にとって魅力的な質感を探して鉄を選択。本格的に鉄で造形していくようになる。ただし、あるがままの鉄材の質感に惹かれたというわけではない。留守が惹かれたのは、材料として既にそこにある規格化された鉄の質感ではなく、留守の行為に対する反応としての質感であり、未知の可能性を秘めた“性格”としてのテクスチャーであった。

3 制作の実材主義

留守は自らを「金属造形作家」と呼ぶ。「鍛金作家」といわないのは、いわゆる鍛金の技法ではない手法が中心になっているからだ。確かに、鍛金の基本である「絞り」などの技法を、留守は余り用いていない。手法の中心は熔接、その地道な繰り返しである。

しかし、仮に、作り手が特定の素材との固有の関係を真摯に探るという在り方を「工芸」と呼ぶならば、留守玲もまた、工芸の地平から現れたアーティストといっていいだろう。大先輩に橋本真之がおり、また、彫刻の地平から現れた前述の土谷武なども特に70年代以降、同じベクトルのもとに制作を展開している。

こうした状況を筆者は造形の“実材主義”と呼んできた。工芸の世界でいちはやく生じた、素材に対する制作の実材主義は、20世紀後半に彫刻をはじめとする造形表現の中にも現れ、確実に一つの領域ないし制作の在り方を形成している。奇しくも一方で、20世紀初頭、表現において作者自身による手わざの放棄を認め、素材との距離を問わなくなった美術の歴史において、特筆すべき造形観である。それは、造形を結果から捉えるのでなく、作り手サイドから思考して初めて見えてくる、もう一つの美術史、造形史であるといってよい。留守玲は少なくとも現在その系譜に力強く立っている。

4 造形の手法−鉄を紡ぐ

留守の制作は、まず材料である地金の準備から始まる。陶芸でいえば土練りや土の紐を作ることに相当するだろう。

0.8ミリから2.3ミリ程度のさまざまな厚みの鉄板をプラズマ熔断機で熔かしていく。 落ちてでこぼこと繋がった鉄片を、そのまま、あるいはクラッカーのように指で割り、鉄のチップを作っていく。数センチのチップのほかに、ミリ単位の小さな丸い粒状の鉄もあれば、砂鉄という鉄の最小単位のような粉状の鉄もある。さらには「熔接棒」と呼ばれる直径1、2ミリ程の細い鉄の棒を、まるで陶芸の輪積みのように、チップの縁に沿って熔かしながら点をつなぎ、上へと積み上げて用意する不定形の円筒や、打ち出して作る鉄の湾曲した板片そのものもある。もともとは工業資材であったサブロクの鉄板が、留守の手を介して豊かな表情をもった素材の貌をあらわにしていくのである。

それぞれの素材を、料理の下準備の食材のように箱に分けて準備する。料理と異なるのは、スタートの時点で材料の「適量」が必ずしも定かではないことだ。

むろん、それら下ごしらえされた多様な鉄材を、箱の中で見ている時点ではまだ個々の「材料」に過ぎないが、ひとたびそれらが留守の手によって刻々と熔接で紡がれていくと、個々の地金は新しい“関係”を作り出すのである。異なったディテール同志が出会い、新たなディテールを生み出すのだ。

複雑で混沌としたテクスチャーはしかし、単なる多様なディテールの集積ではない。むしろ順を追って、あたかも織物のように熔接により“紡がれていった”造形である。

人間の文字言語でいえば、名詞と名詞は助詞で結び付ける、動詞はそれに続く単語によって変化させる、とでもいうような、作者と鉄材が共同で生み出した固有の鉄言語の秩序に沿って展開していく造形物なのである。無関係なものの寄せ集めではなく、ある種の必然を伴った構築物といってもよい。鉄を紡いでいく作業は、留守の言葉を借りれば「鉄に働きかけた私という人間が持つたった一つの秩序を見つけていく」(註3)行為である。

作家によれば、制作する醍醐味は「新しい表情や新しい出来事を見つけること」、つまり「発見」である。作者である留守は常に、 留守の作品における最初の「発見者」だ。

ただし、 ここでいう「発見」とは、個々のディテールの発見というよりも、そのディテール同士の出会いによって生じる“関係”のドラマを見いだすことであり、最終的には、作者自身も結末を計り知ることの容易ではない物語の全体像を知ることであろう。

制作のスタート時点では、留守玲が鉄を通してしゃべっていたはずが、気が付くと鉄自体が留守を介して語り出している。立ち現れる鉄の姿かたちは、留守玲の行為をすべて吸収してそこにある。作家が自己の存在に代えて−作者の肉体や時間、思考や記憶、技術の全てに代えて−作品を生み出すということのリアリティが、作者の言う「迫り来て気が付くと恐ろしい強さをもってそこにあるもの」の正体ではなかろうか。

5 強靭なるかたち−構造をつくる 

陶芸家が土の紐を少しずつ積んでいくように、あるいはテキスタイルの作家が繊維と繊維を地道に織り合わせ結び付けていくように、留守玲がさまざまな形状の金属片を溶接によって紡いでいく行為は、作品を“構造で”築いていくことを意味する。作者の言葉を借りれば、それは「要素が作品のフォルムを[直接]形作ること」([傍点]筆者)(註4)である。

それは、かたちを表面的な輪郭、外側の線のみで捉えるのではなく、フォルムの構造にまで意識を働かせ、いわば“構造=フォルム”として築いていくタイプの造形であり、筆者がしばしば“ガワ的な立体”とよんだ種類の造形である。

陶芸、 彫刻などいわゆる立体造形一般にとっての条件である輪郭への意志は当然だが、多くの陶芸作品や、留守のようなタイプの金属造形の場合は、輪郭だけでなく、その輪郭を構造的に成立させるための素材の組成やガワの厚さ等々にも配慮する。視覚をリードするのは外側の線であったとしても、作り手の意識の中には成形中、常に内側の線ないし内部構造がある。制作における次の一手が、フォルム(表現)の不自然を招かないか、あるいは最悪の場合フォルムの崩壊を引き寄せてしまわないか。作り手は、常時スリルにさらされているのである。換言すれば「外側の線」を成立させるための「内側の線」や「内部構造」にも随時配慮する種類の造形である。留守の作品もまた、 そういう種類の造形に相当する。

「外側の線」の一方的な都合だけによって支持体として別の異素材をあてがったり、有無を言わせず内部を別素材で充填するような、いわゆる彫刻的発想の造形とは異なり、フォルムそのものが支持体でもあるという傾向の造形である。例えば陶芸作品の多くは、いわゆるうつわ形をはじめ、こうした支持体兼用造形であり、作品によっては内と外とがほとんど等価に近いフォルムもあるが、留守の作品もまた、そのようにフォルムが支持体を兼ねる造形である。それは橋本真之や土谷武の造形にも関係する構造だ。構造そのものがフォルムであるという意味で、留守の作品は陶芸のうつわ形やオブジェ、橋本の鍛金造形、あるいは土谷の鉄の彫刻などと共通の造形性をもつのである。

留守の作品がそうした構造的フォルムであることは、今回の目黒陶芸館の作品でも明らかである。作品は輪郭(外側の線)への意識だけではなく、確かな構造としてかたちづくられているのである。

輪郭の絶対を主張する古典的な立体の見方が鑑賞サイドの論理であるとすれば、構造的に攻めていくこのような造形観は、20世紀に自覚された(無論そうした造形は従来からあったはずだが、作り手によって自覚されたのは20世紀のことである)制作サイドの論理である。前者が制作における帰納的進行を採るとすれば、 20世紀以降に自覚された後者のそれは、 制作における展開の演繹性を特徴とする。

5 結びにかえて−この強靭なるもの

留守玲の制作にみる、方法としての演繹性と、構造成形としての熔接の反復は、造形の新たな地平を切り開いていくであろう。「作品は作者自身である」というありふれた言葉が、観念や比喩の上だけでなく、すさまじくも強烈なリアリティとともに実在する事実。留守の作品がもつ「恐ろしい」までの強靭さの理由は、まず、そこにある。

註1:以下、断りのない限り、作家の言葉はその折りのものである。

註2:留守玲『留守玲 金属造形 1998-2004』葉、2004年 10頁

註3・註4:上掲、7頁

本日のツッコミ(全100件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ unaniaindides [zion poker bonus lex non scripta 'common law make my own s..]

_ precose_online [Hello! <a href="http://unep-dams.org/order-precose-online-..]

_ grifulvin [Hello! <a href="http://sportellodonna.org/products/grifulv..]


2006-10-18 川端 健太郎展の開催について

10月29日〜11月5日まで、川端健太郎展を開催いたします。

その作品鑑賞のテキストを外舘和子氏に書いていただきました。

下記のテキストを読んでいただいてから、作品を見ていただくと、川端陶芸の素晴らしさがより理解していただけると思います。

匂いたつ色香のかたち−川端健太郎の境界と磁器の現在ー

                   外舘和子(茨城県つくば美術館主任学芸員)

はじめに

川端健太郎はつい最近、岐阜市に隣接する刀剣の産地関市から、瑞浪市の山林に自宅と工房を移したばかりである。

2006年9月8日、作家本人の案内でその新しい工房を訪ねた。軽トラックで向かう路上にタヌキの死骸をみかけた。山野に囲まれ、テレビもインターネットもなく、猫とラジオを友とする。周囲を全く気遣うことなく制作に集中できそうな環境である。川端は電気窯で焼成しているが、気がねなく薪の窯を焚くこともできそうな、文字通り「在野」の作家にふさわしい環境である。

1 生い立ち−陶芸への道

川端健太郎は、1976年、埼玉県に生まれた。父は調理師を務めた後、銀行マンへと転職、母は主婦の傍らパートの仕事をこなす、ごく一般的な家庭の4人兄弟の2番目である。祖母が安達流のいけばなをするくらいでとりたてて芸術やモノ作りとは関係なく育ったと作家自身はいう。

しかし、モノを作ることへの興味はあったようで、子供の頃は「大工」に憧れ、高校は定時制の建築科に進んでいる。トレースや設計を学ぶ一方、昼間は現場で電気の配線をする仕事に取り組んだ。しかし、配線を「きっちりやり過ぎてしまう」という理由で、その道には早々に見切りをつけた。物理的正確さのみクリアすれば事足りる配線作業と、感覚的でこまやかな手仕事とは、歴然と違ったのである。「どうしてもほかの人がするように大雑把にできない」自分を知った。

高校卒業に際し、教師から何をしたいのかと問われ、口をついてでたのが「陶芸」である。「何で陶芸と答えたのか、よくわからない」と作家は言う。

口にしてしまってから、陶芸のできる専門学校を探し始め、1996年、東京デザイナー学院に入学。ここで2年間、石膏デッサンをはじめ主にデザインのための基礎を学ぶ。また轆轤で飯椀を作り、土練りを覚え、テラコッタも経験した。

2 近代陶への関心−辰砂に惹かれて

東京時代、川端は美術館を巡り、近代陶を研究した。辰砂に興味をもった作家は河井寛次郎を調べ、その延長で楠部弥弌や板谷波山を知った。ギャラリーで現代陶芸を見るという発想はなく、美術館で近代の物故作家の作品を見ることが多かった。宮内庁の三の丸尚蔵館にはよく訪れた。

1996年に錚々たる現代磁器の作家を紹介した東京国立近代美術館工芸館の「磁器の表現−1990年代の展開」(註1)も見ているが、「殆ど何も覚えていない」という。意外にも、当時の川端の関心は、鈞窯などの中国陶磁をはじめ、古いものに集中していたのだ。

ただし、作陶の当初から辰砂を好んだという川端の嗜好は、既にこの作家の内なる資質を示してもいる。辰砂釉は、のちの川端の作風に通じる特有の色っぽさ、なまめかしさを持つからだ。東京デザイナー学院の修了制作でも、辰砂を生かしたものを作りたいと考えた。うつわの横に刺のような形がついた修了制作は「生き物のようなかたち」になった。

3 現代磁器との出会い−多治見市陶磁器意匠研究所

1998年、東京デザイナー学院を卒業後、川端は多治見市陶磁器意匠研究所を受験する。ここで師・中島晴美に出会い、また同所の卒業生で、研究所修了後川端がアシスタントとして働くことになる加藤委ら「現代陶芸の作家」を知るのである。

意匠研究所の試験ではデッサンも一般教養も容易ではなかったが、「面接が面白かったから(落ちてもまあ)いいか」と思ったという。一方、面接にあたった中島晴美は、「なんとか残したいと思わせる」若者であったと後に語っている。奇しくも、同じ年に受験した中田ナオトが、多摩美術大学を選んだため、川端は補欠から繰り上げ合格となった。

この意匠研究所時代に、川端は加藤委を通じて仙道直美監督の映画「火垂」の撮影に協力した。耐火レンガではなく山土を使い、一から窯を作り、山中で煮炊きする体験は、ものの成り立ちを意識するきっかけとなった。

多治見市陶磁器意匠研究所は、今日、現代陶芸史を語るうえで既に欠くことのできない拠点の一つとして位置付けられる。特に、現代陶芸における1970年代末以降の磁器表現の拡がりを強力に推進してきた役割は大きい。1948年生まれの板橋廣美をはじめ、柴田雅光、加藤委、猪倉高志、新里明士、若杉聖子など、鋳込みや轆轤といった美濃の“産地力”も背景にしたさまざまな技法をそれぞれに駆使した幅広い磁器表現が、続々と後進らによって展開されている。

産地として飯椀の半分近いシェアを占めてきた土地柄である美濃の磁器はたくましい。それは例えば焼成温度にも現れる。

磁器発祥の地、有田が1280から1300℃、京都がやや低めの1250から1270℃程度、そして美濃はさらに低めの1230から1250℃程度で焼成する。特に多治見市陶磁器意匠研究所では、オイルショックの時代に、燃料コストを下げるため1230℃の磁器焼成を目標値と設定した。2001−02年のオランダ滞在以来、陶器から磁器に転向した川端の師中島晴美も、現在1230℃で焼成している。使用する土についても、有田が地元産の素材である天草陶石などを主体とするのに対し、京都、美濃と東に向かうほど外国産も含むブレンド磁土も積極的に使用する(註2)。

美濃はいわば磁器の「常識」に挑戦してきた土地なのだ。磁器表現の最先端にしばしば美濃で出会うのはそうした歴史と無関係ではなかろう。

4 匂いたつ色香のかたち−ダブルイメージの中のエロスと生命

多治見市陶磁器意匠研究所を2000年に卒業した川端は、磁器表現をリードする美濃の最も存在感あるカッティング・エッジの一人である。

作品は、意匠研究所時代に出会った磁土を用い、型を一部利用しながら手捻りで成形する。意匠研究所時代、何故、わざわざ磁器で手捻りなのかと、よく尋ねられたという。その度、逆に何故磁器で手捻りしないのかと思ったようだ。

磁器の手捻り自体は、京都の林康夫が戦後の1950年に幾何学的抽象形態を試みており、また2002年以来、中島晴美が有機的かつきわどい形態感を探求してきている。それらがどちらかといえば“大きなフォルム”であり、かたちの明快さを示しているのに対し、川端のフォルムは、ときに淫靡なまでの微細な要素を含む。

川端の仕事を代表する大きな三つの傾向−−スプーン、鉢などの器、そして注器−−は、近年、少しずつ変容し、また洗練されてきてもいるが、そのスタートは意匠研の修了制作であった。修了制作のスプーンと鉢と注器は、作家によれば、一つのコンセプトの中にある。すなわち、「スプーン」で「鉢」からすくって「注器」に入れるという「関係したもの」として制作したのだ。

構想の当初、「スプーン」はやきもので作るのではなく、金属の既製品のヒシャクにしようかと考えたが、「値段も高かったし自分で作ることにした」のだという。それは図らずもこの作家独特の造形言語を引き出すこととなった。

川端にとっては、予定された外的コンセプトよりも、制作行為のなかに生じる内的発見の方が重要な意味を持ったのである。20世紀、とりわけ戦後陶芸のシュルレアリスム的傾向を、今日どこまでも繊細かつ大胆に表現しているのが川端健太郎である。既製品ではなく、可塑的な実素材に向き合うのは、川端のような陶芸のシュルレアリストの特徴である。

「型を外して一生懸命つないで、合わせていると、合わせ目が肥大してきたりして。 つなぎ目、合わせ目をは大事です。・・・・・・つなぎ目が肥大するとおもしろい。 作りながらの判断ですけど」。

手捻りが生み出す境界のエロス。 そこには、 陶土より遥かに外的刺激に敏感で、手跡をのちのちまで記憶する、官能的なまでの磁土と作者との対話がある。焼成温度は1240℃から1250℃。かすかに透けるような感覚も作品の繊細さを表現するには有効だ。川端の磁器を彩る白マット釉の溶け具合、マチエールを決定する温度でもある。

また、作品タイトルが示すように、川端健太郎の作品には、常にダブルイメージがつきまとう。「スプーン」は「女」であり、「注器」は「虫器」であり、「銚子」は「鳥子」である。

「鳥子」が生まれる以前、川端は貴重な体験をしている。

作家は意匠研究所を修了後、1年3カ月、先輩でもあった加藤委のところで働いた。そこで飼育していた鶏を食用にするため、締めてさばいたのは、川端が24歳のときであった。首を切ったときに飛び散る血の熱さ、首のない状態で走り回る鳥の生命力に圧倒された。硬化してしまう前に夢中で羽をむしり取り、自分たちで調理して食べた。東京で食していた鳥肉とは全然違う味がしたという。

川端の作品は、ときに1メートル程のサイズに展開することもあり、この度の目黒陶芸館にも幾つか登場するようだ。しかし、川端の作品はサイズの大小にかかわらず、常に静かな生命の震えを宿している。その繊細さは川端ならではの磁土の手捻りによる大きな効果でもある。うつわのごとき外観を示す形態は、そのダブルイメージの中にしばしば生命を抱いている。川端が磁土の中に見出したのは、硬質であいまいさのない従来の磁器イメージとは言わば対極の、柔らかく危うい姿なのである。

磁土をつむぐ合わせ目、つなぎ目−−川端作品の境界のエロスは生命の尊厳と繋がっている。磁器の白い肌に滲むような釉薬の控えめな色彩もエロティシズムに満ちている。

結語にかえて

17世紀の初め、日本人は白いやきものに憧れ、磁器の焼成に成功した。川端健太郎はそうした白いやきものを見いだしたかつての人々に深く感謝しているという。さらに、楠部弥弌や富本憲吉らが20世紀の前半に“個人作家の磁器”を始めて四分の三世紀が過ぎた。

しかし、当時、将来、磁土でこのような表現がなされることを誰が予想したであろうか。日本の磁器発祥から約4世紀、その間、自己表現としての磁器の開始を経て、磁器は今ここまで来ている。

境界のエロス−−川端健太郎の身体を通して磁土のはざまから生まれるものは無限である。匂い立つような色香のかたちは、どれほど淫靡であろうとも決して品位を失うことがない。しかも他のあらゆる素材を用いた表現の数々と照らして、川端の作品が圧倒的な独創性を示していることに、共に陶芸史を歩んで行く者として、殆ど驚愕にも似た衝撃といっていい喜びを感じている。

註1:20世紀終盤の磁器表現の拡がりを広範に捉えた重要な展覧会である。

註2:佐賀県窯業技術センター、京都工芸試験場、多治見市陶磁器意匠研究所等のご教示による。

本日のツッコミ(全99件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ Viagra [ Erectile dysfunction, <a href="http://www.viagrausaonline..]

_ stainedglassdoll [ http://www.joshstricklandonline.com/buy-phentermine-no-pe..]

_ Viagra [ Erectile dysfunction, <a href="http://www.usaonlineviagra..]


2006-08-02 愛教大のグループ展について

現在、当館では、愛知教育大学造形文化コースの学生諸君のグループ展を開催中です。

当館別館の平田邸の蔵、庭、座敷、書院の四会場に10名の若き学生(陶芸家)の作品を展示しております。

何だ、教育大学の学生の展示かと言われそうであるが、見られた方はレベルの高さにびっくりしています。

私の感想も同じで、プロの陶芸家顔負けの完成度の高い作品も有りますし(田中知美君、村上真以君の作品)、出品者10人全てに光るものを感じます。

見られると、なぜ、このようにレベルの高い作品が生まれてくるのかと疑問を持つ方もいるかもしれません。

理由は簡単、担当教官が中島晴美さんだからです。多治見市陶磁意匠研究所での学生指導のうまさは伝説になりつつありますが、愛教大の教授に就任して3年。早くも成果を出し始めました。

才能のある学生とそれをうまく引き出す指導者の存在の重要性をまざまざと見せつけた展覧会となりました。

ですから、陶芸愛好者、学生の皆さん、そして、美大の指導者の方々に是非見ていただきたいと思います。8月6日まで開催しております。

本日のツッコミ(全99件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ brahtrash [tuan le poker <a href="http://www.soccerclub.com/profiles..]

_ brahtrash [procrastinate poker online paypal <a href="http://www.soc..]

_ brahtrash [dragonballgt games online <a href="http://www.soccerclub...]


2006-01-11 明けましておめでとうございます

明けまして、おめでとうございます。

当ギャラリーは、5月まで冬眠です。5月に佐藤雅之展から始めます。

本年も、現代陶芸の紹介を積極的に行ってゆきます。

さて、9日に愛知県立陶磁資料館で行われている「日韓の学生の陶芸展」を見てきました。それぞれの国の陶芸の状況の一端とそれぞれの大学の状況が分かり参考になりました。特に、指導者(先生)によって、いい意味でも悪い意味でも、その大学の陶芸の傾向を左右していることがよく分かります。

是非、見られることをお勧めいたします。

本日のツッコミ(全100件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ gtdwy [Hello http://www.kaskus.us/blog.php?b=54574 free teen sex ..]

_ orexu [Bing http://www.kaskus.us/blog.php?b=54584 tiny tubetroope..]

_ munui [Yeah http://www.kaskus.us/blog.php?b=54594 free gay hardco..]